1641年、平戸から出島にオランダ商館が移設されると、商館員の健康管理のために商館医も赴任してきました。商館がその歴史を閉じるまで63人ほどが来日したといいます。商館医は、人によっては本来の仕事に加えて、商館の取引や管理業務にも携わり、また、自身の研究を異国の地で深める、という調査研究も行っていました。
さて、江戸時代に誕生した学問が「蘭学」です。蘭学とはオランダ語を通じて学ばれた西洋の学問を略したもので、オランダを中心とするヨーロッパの最新の学問は、おもに商館医によって伝えられました。なかでもケンペルとツュンベリー、シーボルトは出島三学者としても名を知られ、日本の近代化に大きな影響を与えたと言われています。
ここでは、17世紀から18世紀に来日したケンペルとツュンベリーに注目してみましょう。
ケンペルはドイツの医者で博物学者です。オランダ東インド会社の船医となり、1690年、商館長付き医者として来日しました。1692年まで滞在し、商館長の江戸参府に二回随行して、日本についての調査研究をまとめました。ケンペルの死後、遺稿から『日本誌』として編まれた大著は、日本の地理的概要、日本人の起源についての考察、紀行、地下資源、動植物、天皇と将軍の歴史、宗教、祭祀(さいし)、長崎および外国人の対日貿易、江戸参府旅行についての旅の記録などの構成で、幕末、日本に開国をせまったペリーも日本研究のためにケンペルの『日本誌』とシーボルトの著作を所有していました。黒船が現れたのは1853年、ケンペルの『日本誌』は100年以上にわたって読み継がれていたということになります。
日本の調査研究を行うには、有能な日本人の助手が必要でした。
<一介の物好きが現在の制度下においてこの鎖国状態の国の情報を集めようとすれば、それは非常な高価なものにつき、しかも困難であり、且つ時には危険を伴うものである>
オランダ商館員たちは出島から出ることを禁じられていました。制限の多い出島で、日本語も話せずに日本を研究するためには、日本人の協力者が必要と考えたケンペルは、ひとりの青年に目をつけ、ほかの通詞たちが足元にもおよばぬほどオランダ語を教え込み、信頼関係を築いていきます。それが今村源右衛門でした。
<私は引き続きかれに根気よく解剖学をはじめその他の医学を教え、しかも私のわずかな資産の割には巨額の年俸をかれに与えた>
<その代わり、かれは私にこの国の位置や状況、政府、制度、宗教、歴史、家庭生活などについて、この上なく詳しく教えてくれ、かつあらゆる文献を探し求めてくれた>
ケンペルは、ときには禁を犯してまで情報を提供してくれた源右衛門の立場に配慮して、執筆した原稿には源右衛門の名を記していません。源右衛門の存在が明らかになったのは近年のことで、“かれ”と匿名で書いたケンペルが源右衛門を深く慮(おもんぱか)っていたことがわかります。
ケンペルの持つ豊かな知識と教養と鋭い観察眼は、源右衛門という助手を得ることによって、日本研究をより深いものにし、ヨーロッパにはじめて日本の文化と歴史に関する全体像を紹介する『日本誌』がつくられました。
ケンペルが日本を離れてから約80年後、ケンペルの『日本誌』を手に商館医として来日した人物がツュンベリーです。
ツュンベリーは、スウェーデンの医師で博物学者で、1775年に外科医として来日しました。江戸参府に同行して植物採集にはげみ、持ち帰った800余種の植物を『日本植物誌』や『日本植物図譜』にまとめてヨーロッパに紹介しました。カキ、サザンカ、ナンテンは日本語がそのまま学名として名付けられています。
『日本植物誌』はその後、日本で『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』として訳されます。リンネの分類法を日本ではじめて紹介して、日本植物学の基礎が作られました。このため、ツュンベリーは日本植物界の父とも呼ばれています。
1775年~1776年の約1年余、出島に滞在したツュンベリーもケンペルと同様にさまざまな事柄を書き残しました。
<長崎は砦も城塞も、そして濠もない開放的な町であり、曲がりくねった道路とそこを流れる数本の運河がある。周辺の山々からの水はこの運河に注ぎ込み、港に達している>
<港内に停泊している小型日本船に、海神への捧げ物として、世界中で最も美しい花の一つであるカノコユリがぶら下がっているのを、私はしばしば目にした>
<サザンカは、長崎周辺にかなり豊富に生えていた。小灌木で、葉も花も茶の木によく似ており、大きさが異なる点を除けば見分けるのに苦労するほどである。その葉は馨しい匂いを出すので、女性はその葉を煎じて洗髪時に使う。また茶の葉に混ぜれば、一層馨しい匂いを放つ>
<礼儀正しいことと服従することにおいて、日本人に比肩するものはほとんどいない。お上に対する服従と両親への従順は、幼児からすでにうえつけられる。そしてどの階層の子供も、それらについての手本を年配者から教授される。その結果、子供が叱られたり、文句を言われたり打たれたりすることは滅多にない>
<節約は日本では最も尊重されることである。それは将軍の宮殿だろうと祖末な小屋のなかだろうと、変わらず愛すべき美徳なのである。節約というものは、貧しい者には自分の所有するわずかな物で満足を与え、富める者にはその富を度外れに派手に浪費させない。節約のおかげで、他の国々に見られる飢餓や物価暴騰と称する現象は見られず、またこんなにも人口の多い国でありながら、どこにも生活困窮者や乞食はほとんどいない>
<日本人は迷信から犬を飼っている。犬はこの国で唯一の怠け者である。猫は、大方は女性のペットである。鶏と普通の家鴨は、家でも飼われている。飼う最大の理由は、それが卵を産むからであろう。卵は日本人の大好物で、あらゆる機会に固茹でにしたり、また細かく切ったりして使う>
<一般的に言えば、国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き、善良で友情に厚く、率直にして公正、正直にして誠実、疑い深く、迷信深く、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である>
異国のめずらしい風習や文化に強いまなざしを寄せて観察していて、1775年~1776年の長崎の町とそこに生きる人々を見つめています。
ツュンベリーは日本で親しくなった通詞や蘭学者たちと帰国後も交流を持ちました。通詞たちが手紙とともに送った植物の押し葉や種子、スケッチ、また、ツュンベリーに書籍を送ってもらったお礼状などがウプサラ大学に残されています。
ケンペルやツュンベリーから教えを受けた阿蘭陀通詞らは、語学、天文学、軍事技術など数々のオランダ語の書物を翻訳して紹介しました。日本語に訳された書物をもとに蘭学は日本で独自に発展し、日本が近代化していく礎となっていきます。
私たちはケンペルやツュンベリーの著作から、当時の長崎や日本を知ることができます。さらに、彼らと交流した通詞や蘭学者たち、また古い文書を研究されてきた方々のおかげで、わたしたちは数世紀前の景色を思い描くことができます。
出島で暮らしたケンペルやツュンベリーを知るとき、21世紀を生きている私たちとの間にも、またひとつ時の流れができて、彼らとつながったような気がしてきます。「長崎出島」、小さな島はかつて確かにあった時間を映しだしてくれる、歴史の記憶装置なのかもしれません。
1.「ナガジン」発見!長崎の歩き方
「出島回想録~出島が日本と世界にもたらしたもの~」 2003年11月
「出島2006~江戸時代の長崎が見えてきた!~」 2006年8月
現代のオランダ人の目に映る“NAGASAKI” 2012年2月
2.歌で巡るながさき
長崎の歌(48)~歌さるき・1~出島・大波止界隈 2005年 2005年9月