1569年、長崎に初めて教会が建てられ、キリシタンの人口が増えていきました。1570年、大村純忠は長崎開港を決め、海に突き出た岬の上に島原町、平戸町、大村町、横瀬浦町、外浦町、文知町の六つの町が造成されます。国際貿易都市長崎の誕生でした。
いま長崎といえば、すぐに連想するもののひとつが出島です。鎖国体制時代、西洋とつながっていた窓口ですが、出島ができる以前には、多くの日本人が野望と希望を胸に抱き、長崎から大海原へ出て行った時代がありました。徳川幕府から海外渡航の許可を認める朱印状を携えた人々は東南アジアの広い地域へと出航していきます。海外と盛んに通商した彼らは貿易で莫大な利益を得て、アジア各地に拠点をつくっていきました。いわゆる日本人町です。最盛期には、フィリピンのマニラには3000人、タイのアユタヤには1500人が住んでいたといいます。わずか30数年の短い期間でしたが、日本における大航海時代と言えるでしょう。
長崎の商人では、末次平蔵、荒木宗太郎、糸屋随右衛門らが活躍しました。
日本とオランダとの交流は1600年のリーフデ号の漂着にはじまります。これがきっかけとなって、1609年、平戸にオランダ商館が開設されました。
キリスト教が勢いをまして広がっていった時代、危機感を募らせた幕府はキリスト教布教を禁じて、ポルトガル人を収容するために出島という人工島を築きます。ポルトガルとの交易はキリスト教布教が深く関わっていたからでした。
島原の乱後の1639年、すべてのポルトガル人が追放されます。一方、オランダはプロテスタントも多く、布教と切り離し、貿易を求めてきました。幕府は1641年、オランダ商館を平戸から天領であった長崎の出島に移させ、ここから、出島のオランダ商館を舞台に200年以上にも及ぶ日蘭交流の歴史のドラマが刻まれていきます。
オランダ東インド会社は1602年に設立された世界初の株式会社ですが、会社といってもアジアにおいて、外交権や軍事権などの権限をもっていました。また行政権もあり、実質上、小さな国家だったともいえます。また、従来は航海が終わると一回ごとに清算をしていたものが、会社という永続的な集団になったために、長期的な観点にたって予算を組んで貿易を行うことが可能になったといわれています。
オランダ東インド会社はインドや東南アジアの各地に支店を設けてアジアで活動していきます。
日本とオランダとの貿易は17世紀が全盛期で、オランダの黄金時代とよばれました。
オランダが求めたものはスパイス。そのスパイスを手にいれるためには、何よりも日本の銀や銅が必要でした。オランダは中国やベンガル、トンキン産の生糸を日本に売り、日本で目当ての銀、のちに銅を手に入れます。それを用いてインドで綿織物と交易し、インドネシアなどで目的のスパイスを手に入れ、ヨーロッパへと運んでいきました。
1.「ナガジン」発見!長崎の歩き方
「出島回想録~出島が日本と世界にもたらしたもの~」 2003年11月
「出島2006~江戸時代の長崎が見えてきた!~」 2006年8月
現代のオランダ人の目に映る“NAGASAKI” 2012年2月
2.歌で巡るながさき
長崎の歌(48)~歌さるき・1~出島・大波止界隈 2005年 2005年9月