文・宮川密義


1.「サヨナラ長崎」
(昭和46年=1971、どいあきら・作詞、新井靖夫・作曲、かずみあい・歌 )


船で長崎に別れを告げる男性に“連れて行って!”とすがる女性に、港、船、思案橋、雨の丸山、オランダ坂…長崎の素材を絡めた長崎ならではの別れ歌です。
これを歌った、かずみあいは本名・馬場愛子、五島生まれの長崎育ち。クール・ファイブが長崎市内のキャバレー「銀馬車」からデビューして長崎を離れた後のステージで1年半歌って上京。ハリオ・プロとビクター・レコードのスカウトを得て、MCAレーベルの邦楽第一号歌手として、昭和46年2月に「おんな花」でデビュー、4カ月で15万枚を売って“演歌の花”“女前川清”と期待されました。
「サヨナラ長崎」は同年7月発売の2枚目シングル「恋おんな」のカップリング曲。「恋おんな」はビブラートの大きいワルツ調、「サヨナラ長崎」はロック調ながらオーソドックスな歌い方で好評でした。


「サヨナラ長崎」も入ったレコードの表紙
(人物は かずみあい)



2.「さよならした長崎」
(昭和47年=1972、有馬三恵子・作詞、植田嘉靖・作曲、三田 明・歌 )


夜更けの長崎の町で、紫色の蛇の目傘に別れた女の面影を求める男の失恋の歌。
歌う三田明(みた・あきら)は本名・辻川潮(つじかわ・うしお)。清純なルックスと美声でデビュー曲「美しい十代」など1960年代を中心にヒットを飛ばし、時代劇を中心に俳優としても人気を集めました。
東京都出身ですが、長崎県の鹿町町(しかまちちょう)には祖先の墓もあり、大村に住んでいた父親は46年亡くなりました。三田にとって長崎県は“第二の故郷”でもあり、歌手生活10年目に「さよならした長崎」の歌唱が実現しました。
当時、父親の墓参も兼ねて新曲のあいさつとキャンペーンに幾度か長崎を訪ね、ファンとの交流やラジオ、テレビ出演などに走り回っていました。


「さよならした長崎」の表紙

 

3.「別れ長崎なみだ雨」 
(昭和47年=1972、松井由利夫・作詞、大沢淨二・作曲、亜里ひろみ・歌)


長崎らしい素材が並んだ愚痴っぽい別れの歌です。
昭和47年は1月から前述の「さよならした長崎」、4月にはロス・インディオスの「長崎のふたり」、7月も都はるみの「長崎の恋は悲しい」、12月は春日八郎の「長崎恋ものがたり」など47曲が出ています。「別れ長崎なみだ雨」は三田明の歌と同じ1月発売。正月早々からキャンペーンを競った形となりました。
亜里(あり)ひろみは本名・成田まさ子。秋田県出身で、高校時代から“秋田おばこ”にふさわしい美人歌手として評判をとりました。上京して作曲家の大沢淨二(おおさわ・じようじ)に師事、44年にデビュー、「別れ長崎…」は11カ月ぶり6枚目のレコードでした。
秋田県出身らしく民謡も得意で、チャイナメロディーに乗せた「別れ長崎…」はフレッシュな軽快さと日本的な味で聴かせました。


「別れ長崎なみだ雨」の表紙

 

4.「港・坂町・別れ町」
(昭和49年=1974、石本美由起・作詞、猪俣公章・作曲、八坂京子・歌)


ネオンの函館、霧の横浜、灯りも消えた新潟、雨の長崎…と、坂の多い港町を舞台の別れ歌。
作詞は長崎の歌ではおなじみの石本美由起(いしもと・もみき)。デビュー曲「長崎のサボン売り」以来33曲目の長崎もの。“また長崎もので勝負します”と語っていた意欲作で、猪俣公章(いのまた・こうしょう)の曲はスローテンポのムード歌謡でした。
ところで、昭和40年代の歌謡界は「思案橋ブルース」に始まる“長崎ブーム”で、レコード会社の“長崎ものは売れる”の合言葉まで聞かれましたが、43〜45年が20曲台だったものが46年は36曲、47年47曲、48年45曲〜と増え続けて、歌謡曲ファンには少々飽きられた状態でした。
そこで、五木ひろしの「長崎から船に乗って」(46年)のように、長崎だけでなく似たような町を辿るパターンが出始めました。“どこかで売れるはず”の手法はこの「港・坂町・別れ町」にも見られましたが、ヒットにはつながりませんでした。



「港・坂町・別れ町」の表紙

 

5.「長崎フィナーレ」
(昭和52年=1977、阿久 悠・作詞、小林亜星・作曲、朝田のぼる・歌)


小雨の西海橋で最後の口づけをして、北と南に別れた男と女。思案橋や港での別れが多かった長崎ものでは珍しい別れのシーンです。
これをソフトに歌った朝田(あさだ)のぼるは、欽ちゃん司会の「スター誕生!」(日本テレビ=長崎ではテレビ長崎放映)の出身で、昭和50年の第15回決戦大会で審査員特別賞を受賞、翌51年に青春演歌「白いスカーフ」でデビュー、オリコンで40位まで上昇して当時の新人では好成績を収めました。
52年に「その日が来たら」のカップリング曲として「長崎フィナーレ」を発表、54年には「おやじの酒」をヒットさせました。
「長崎フィナーレ」を作詞した阿久悠(あく・ゆう)は「スター誕生!」の企画者で審査員の一人。作曲は同じ「スター誕生!」で審査員を務めた小林亜星(こばやし・あせい)が担当、まさにゴールデン・コンビの作品でした。


「長崎フィナーレ」の表紙

 

6.「涙・長崎・しのび雨」
(昭和52年=1977、西沢 爽・作詞、陸奥高志・作曲、嶋ひろし・歌)


昭和43年に出た「思案橋ブルース」のコロラティーはキャバレー「十二番館」から、44年にデビューした「長崎は今日も雨だった」のクール・ファイブはライバルの「銀馬車」からでした。当時はキャバレー同士の“歌合戦”の様相を呈したわけですが、もう一つのキャバレー「オランダ」からも45年に「長崎ごころ」でジ・アーズがデビューします。
3つのグループのうち息長く活躍したのはクール・ファイブで、そのボーカルだった前川清は今もなお現役を続けています。
コロラティーノは45年9月に解散し、ボーカルの中井昭だけソロ歌手に。ジ・アーズも48年に解散、ボーカルの嶋ひろしもソロで再出発しました。
嶋のソロとしての3曲目が「涙・長崎・しのび雨」でした。「長崎ごころ」などそれまでの歌は“女心”の切なさをドロ臭く描写したものでしたが、この歌は、別れた恋人への未練を引きずりながら、思案橋やオランダ坂、港などを歩く“男の哀愁”を切々と聴かせるムード演歌でした。

「涙・長崎・しのび雨」の表紙




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