文・宮川密義


今回は昼間の繁華街・浜町から夜の繁華街・銅座〜思案橋あたりを“歌さるき(歩き)”してみましょう。(本文中の青文字はバックナンバーにリンクしています)

(1) 浜町
  長崎市の昼間の繁華街は、ここ浜町。市民には「はまんまち」と呼ばれて親しまれています。
(2) 「銀馬車」跡
  戦後のキャバレー全盛時代、最も人気を集めたのが「銀馬車」。「長崎は今日も雨だった」のクール・ファイブは、ここの専属バンドでした。ライバル「十二番館」との“歌競争”も話題になりました。
(3) 「十二番館」跡
  銅座川の川べりにあったキャバレー「十二番館」の専属バンドはコロラティーノ。「思案橋ブルース」でデビューして、“長崎の歌ブーム”の口火を切りました。
(4) 「オランダ」跡
  第三のキャバレー「オランダ」の専属バンド、ジ・アーズも「長崎ごころ」でデビューしました。
(5) 思案橋跡
  花街・丸山への“行こか戻ろか思案橋”は“長崎の歌ブーム”で一躍、観光名所となりました。
(6) 思切橋跡、見返り柳
  思い切って丸山へ上る人、未練を断ち切る人〜“山の口”にあった思切橋跡、その脇で今も芽吹き続けている見返り柳と共に様々な人間模様が偲ばれます。

【浜町〜銅座〜思案橋周辺マップ】


(1)浜町

浜町(はままち)は長崎市の中心にあり、通称は「はまのまち」「はまんまち」といろいろ。昭和41年(1966)に町界町名変更で、旧東濱町と西濱町・鍛冶屋町・銅座町、萬屋町の各一部が合併して浜町となりました。
昭和46年には“浜市誕生300周年”を迎え、早くからショッピングの中心となり、東京の“銀ブラ”に対して“浜ブラ”として市民に親しまれています。

1.「ながさき浜市音頭」

(昭和53年=1978、毛利忠義・作詞、深町一朗・作曲、春日八郎・歌)


昭和53年に創立75周年を迎えた長崎市浜市商店連合会(当時150店)が「ながさき浜市音頭」と「浜市商店街を舞台とした情緒豊かな歌謡曲」の歌詞を前年の暮れに募集しました。
北海道など全国各地から354通の応募があり、長崎の郷土史家・永島正一さんらの審査で、「ながさき浜市音頭」は島根県の毛利忠義さん、「長崎浜市慕情」は新潟県の関根ふみとさんの作品が入選しました。
「ながさき浜市音頭」は地元の深町一朗さん、「長崎浜市慕情」は「松ノ木小唄」などで人気の作曲家、白石十四男さんがそれぞれ作曲しました。
昭和53年11月23日に4日間の日程で始まった第8回浜市祭りの初日、岡政デパート(今の大丸)横に東浜町の龍宮船を引き出した仮設の舞台を造り、「長崎の女(ひと)」のヒットを飛ばしたベテラン歌手の春日八郎が「ながさき浜市音頭」を、「浜市慕情」は高田恭子が初披露しました。
長崎の石橋輝興(いしばし・てるおき)さん振り付けの「浜市音頭踊り」を同商店街のご婦人たち50人が踊りムードを盛り上げました。


2.「長崎浜市慕情」

(昭和53年=1978、関根ふみと・作詞、白石十四男・作曲、高田恭子・歌)



「ながさき浜市音頭」を歌う春日八郎


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(2)「銀馬車」跡

「長崎は今日も雨だった」で全国デビューした内山田洋とクール・ファイブを専属バンドとしていたキャバレー「銀馬車」があった所です。
現在は「ホリデイ・イン長崎」などが建っています。



キャバレー「銀馬車」の外観
(歩道に浜町バス停が見える)

3.「長崎の別れ星」
(昭和43年=1968、吉田孝穂・作詞、佐藤正明・作曲、大木英夫・歌 )


昭和43年(1968)にライバルの「十二番館」の専属バンド、高橋勝とコロラティーノが「思案橋ブルース」でデビューすることになり、対抗意識を燃やした「銀馬車」も歌でアピールしようと考えました。
「銀馬車」にたびたび来演していたミノルフォン歌手、大木英夫(おおき・ひでお)と話し合い、「銀馬車」の営業次長、吉田孝穂(よしだ・たかほ)さんが作詞し、大木が佐藤正明の本名で作曲、この歌を完成させ、「思案橋ブルース」にひと月遅れて発売しました。
歌詞に出る「春雨通り」は「銀馬車」の前付近から路面電車が走る思案橋までの大通りで、雨の夜は路面にもネオンが映えて、歩道の柳とともに独特の風情を醸し出していました。
当時は青江三奈の「長崎ブルース」も出て、ラジオや有線放送でトップ争いが続き、翌44年には「銀馬車」の専属バンド、内山田洋とクール・ファイブが「長崎は今日も雨だった」でデビュー、“長崎の歌ブーム”はいよいよ加熱していくことになります。


現在の「銀馬車」跡付近
(左端に浜町バス停がある)




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(3)「十二番館」跡

キャバレー「十二番館」は新地中華街近く、銅座川(現在は駐車場でふさがれている)に面して建っていました。現在の東映ホテルのある場所です。
当時は造船ブームなどで夜のネオン街は大変にぎわい、歌謡界では“ご当地ソング・ブーム”が開幕、夜の街に音楽を流す有線放送や民放のNBCラジオのヒットチャートにも関心が注がれていました。
昭和43年、「十二番館」の専属バンド、高橋勝とコロラティーノが「思案橋ブルース」でデビューして歌謡界に長崎ブームが開幕します。
また、「思案橋ブルース」に続く長崎の歌には「思案橋」が歌い込まれて、“橋のない思案橋”には観光客が見物に訪れ、新たな観光スポットとなりました。(バックナンバー「思案橋の歌」に詳述)
なお、昭和45年に出た瀬川映子(せがわ・えいこ)の「長崎の夜はむらさき」の発表会もここで行われました。



瀬川映子「長崎の夜はむらさき」の発表会
が行われたときの「十二番館」の内部



キャバレー「十二番館」跡
(今は東映ホテルが建っている)


(4)「オランダ」跡


「十二番館」「銀馬車」に次ぐ第三のキャバレー「オランダ」は思案橋から丸山方向への入口から右に入る路地「思案橋横丁」(「グルメ通り」とも)の中程にありました。ここにも5人編成の「ジ・アーズ」という専属バンドがいました。






向かって左側にキャバレー「オランダ」があった思案橋横丁(グルメ通り)

4.「長崎ごころ」
(昭和45年=1970、酒井好満・作詞、野田孝一・作曲、アーズ・歌)


「十二番館」「銀馬車」からヒット曲が出るに及んで「わがオランダからも…」と考えた同店の支配人、酒井好満(さかい・よしみつ)さんが作詞、バンドのリーダー、野田孝一(のだ・こういち)が作曲、有線に売り込んだのが「長崎ごころ」と「長崎非情のブルース」でした。
スタイルはクール・ファイブばりですが、かなりアクの強い“ド演歌”ともいえる歌い方。ボーカル・嶋ひろしの、浪花節のようにコブシを強調した歌唱が特徴でした。これをビクターがスカウト。45年11月デビューします。
しかし、その後のポップス・ブームに押された形で、デビューから2年近く過ぎた47年9月に解散、ボーカルの嶋浩だけがソロで活躍しました。


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(5)思案橋跡

かつて花街丸山への“郭橋”が架かっていましたが、木橋が火災で焼失、石橋、コンクリート橋、鉄橋などに架け替えられた後、戦後の道路整備事業によって川が暗渠となり、思案橋も消えました。(バックナンバー「思案橋の歌」参照)
昭和43年(1968)の「思案橋ブルース」をはじめ、思案橋を歌った多くの歌によって“思案橋”の名は全国に知られ、長崎の観光スポットとなり、観光客の戸惑いで鉄橋時代の欄干が復元されました。
思案橋・銅座・丸山地区の商店会や自治会でつくる同地区活性協議会は花街として華やかだった当時の思案橋の復元を計画、実現に向け活動を続けています。
ここでは思案橋付近から本石灰町、籠町、船大工町あたりも含めた長崎の夜の繁華街「銅座(どうざ)」を歌った歌を紹介します。



復元された思案橋の欄干

5.「銅座の宵待草」
(昭和51年=1976、松生 静・作詞、中山治美・作曲、浜たかし・歌)


当時、銅座をタイトルに付けた歌は初めてでした。これを歌った浜たかし(本名・浜崎孝行さん)は長崎市の隣町、西彼杵郡時津町でレストランを経営。少年時代から歌が好きで、長崎の音楽家・中山治美さんに師事してレッスンを受けていました。
27歳の昭和51年、自費でレコードを出そうと中山さんに作曲を依頼。中山さんは歌謡同人誌に掲載された東京在住の松生静(まつお・しずか)さんの詞に「銅座の宵待草」の題を付けて作曲したものです。
その後、浜たかしさんは歌手活動に専念、昭和55年には「長崎は俺のふるさと」も出しました。


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(6)思切橋跡と見返り柳

思案橋跡から商店街に入り、丸山への登り口、通称“山の口”の三叉路の右手にカステラの福砂屋、その前に見返り柳があり、その根元に「思切橋」の欄干だけが残っています。
昔、花街丸山で遊ぼうか…と迷いながら思案橋を渡り、思切橋で決心して丸山へ。帰りは思切橋の上で遊女への未練を断ち切り、見返り柳の下で振り返りながら帰宅していたとか。
見返り柳の横から銅座の飲屋街に入る小道を「柳小路」と呼んでいます。
思切橋と見返り柳を歌った歌は数曲ありますが、内山田洋とクール・ファイブが歌った「思い切り橋」がその代表曲でしょう。


見返り柳

6.「思い切り橋」
(昭和52年=1977、山田孝雄・作詞、浜 圭介・作曲、内山田洋とクール・ファイブ・歌 )


グループ結成10周年を迎えたクール・ファイブが原点に戻って、もう一度、長崎もので勝負をかけようと吹き込みました。
この歌の半年前に出した「西海ブルース」は一応ヒットしたものの、大ヒットとまではいかなかったので、この「思い切り橋」に期待し歌っていましたが、「長崎は今日も雨だった」には及びませんでした。


見返り柳の根元に置かれている
「思切橋」の欄干


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7.「長崎未練」
(昭和46年=1971、吉川静夫・作詞、渡久地政信・作曲、青江三奈・歌 )


青江三奈は「長崎ブルース」の人気が鎮まった後、しばらく低迷期がありました。そこで、もう一度“長崎もの”でヒットを飛ばそうと、「長崎ブルース」から3年近くたった昭和46年6月に、「長崎ブルース」と同じ作詞・作曲コンビによる「長崎未練」を出しました。
夜の街・銅座、思切橋、丸山界隈を舞台に、断ち切ろうとしても断ち切れない男への未練、恨み、哀惜といった微妙な女心を表現したものです。
青江は「長崎ブルース」の後、新しい世界を模索していましたが、やはり、本来の青江三奈ぶしを望む声が強く、「長崎ブルース」と「池袋の夜」のパターン、ブルース歌手の魅力を再現させました。



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