文・宮川密義

1,560曲の長崎の歌の中で、題名に「思案橋」を付けた歌は9曲ですが、歌詞にはかなり歌い込まれています。
その先駆けは昭和43年(1968)4月に出た「思案橋ブルース」で、それ以後、長崎ものの全国ヒットが相次ぎ、数年間は歴史に残るほどの“長崎ブーム”を招きました。
歌に取り込まれた「思案橋」の歴史は古く、文緑元年(1592)に架けられました。
小島地区の上から流れてくる玉帯川の川口に架けられ「川口橋」と名付けられ、「黒川橋」とも呼ばれました。土橋から木の橋になり、屋根もついた“廓橋”の時代もありました。
明治8年(1875)に火災で焼けて石橋に造り替えられ、大正3年(1914)にコンクリートを塗った鉄橋になります。しかし、昭和23年(1948)、この一帯の区画整理のため暗渠(あんきょ)となり、思案橋の姿は消え失せました。


「長崎名勝図絵」に描かれた思案橋


大正末期の思案橋(長崎文献社提供)


1.「思案橋ブルース」

(昭和43年=1968、川原 弘・作詞、作曲、高橋勝とコロラティーノ・歌)




作詞、作曲の川原弘(かわはらひろし)さんは長崎出身で、原爆で身内を全部亡くし、単身上京。苦労の末トランペッターとして活躍しましたが、病気のため帰郷、クラブ「十二番館」の専属バンド「高橋勝とコロラティーノ」で働いていました。
昭和42年この歌を作り、自分たちで演奏したところ評判となり、レコード会社のスカウトを受け、43年4月全国デビューとなりました。
この歌で「思案橋」に興味が注がれ、ヒット街道をばく進してミリオンセラーになり、長崎ものブームの先陣を切ることになります。



「思案橋ブルース」のジャケット
手前はボーカルの中井昭さん




作詞・作曲の
故・川原弘さん


2.「思案橋のひと」
(昭和43年=1968年、吉岡 治・作詞、戸塚三博・作曲、高橋勝とコロラティーノ・歌)




コロラティーノは5カ月後の43年9月に2枚目のシングル盤「夜の贈り物」と「灯りを消して」を出しますが、あまり売れませんでした。そこで、もう一度「思案橋もの」でというわけで、同年12月に出したのが「思案橋のひと」です。
作詞、作曲は東京のヒットメーカーを起用するなど、力を入れましたが、12月発売では年末商戦に間に合わず、青江三奈さんの「長崎ブルース」の圧倒的な人気に押されて、レコード売り上げでは44年1月に9位に顔を出した程度でした。


「思案橋のひと」のジャケット


現在の夜の思案橋商店街入り口


3.「思案橋空車」
(昭和43年=1968年、高浪ふじお・作詞、松本敏美・作曲、松本敏美とハニー・トーンズ・歌)



思案橋の街角で、心が空車状態の男性が女性に声をかける情景を描写したものです。
作詞の高浪(たかなみ)ふじおさんは当時、めがね店の社長で、石原裕次郎さんのアクの強いころのノドをイメージして作詞しました。
長崎で活躍していた「松本敏美とハニー・トーンズ」のボーカル、滝村雄二(たきむらゆうじ)さんが、そのイメージに近いとして、リーダーの松本敏美(まつもととしみ)さんに作曲を頼み、完成させました。
ラジオや有線放送でもリクエストが多く話題となり、折からの長崎ブームと、「空車」のタイトルにレコード会社が関心を持ち、全国発売となりました。
しかし、翌44年に「長崎は今日も雨だった」(クールファイブ)など長崎ものが続出、ハニー・トーンズも解散したため、大ヒットとまではいきませんでした。
高浪さんはほかにも「青春空車」「マニラは今」「ジャガタラお春に似た女」などの作品を書き、松本さんも「長崎詩集」などの作曲のほか、歌謡指導などで活躍中です。


「思案橋空車」のジャケット
人物はボーカルの滝村雄二さん



作詞の高浪ふじおさん



作曲の松本敏美さん


4.「女の思案橋」
(昭和49年=1974、江崎みずほ・作詞、出島ひろし・補作、矢野憲一郎・作曲、
矢野憲一郎とアローナイツ・歌)




作詞の江崎みずほさんは当時、長崎市本石灰町の丸山入り口で美容院を経営していました。
美容院には場所柄、ネオン街で働くホステスさんたちが髪のセットに訪れ、そのひととき、夜の仕事の苦楽を語り合っていました。
それらの話には様々な人生模様が編み込まれており、江崎さんはそれらの話をノートにメモし、それを基に作詞したそうです。
当時、市内で活躍中の「矢野憲一郎とアローナイツ」のリーダー、矢野憲一郎(やのけんいちろう)さんが「女の思案橋」のタイトルを付けて作曲、自ら吹き込んでレコードになりましたが、全国ヒットとまでは至りませんでした。


夜の思案橋付近に、
矢野憲一郎(右から2人目)と
アローナイツをあしらった
「女の思案橋」のジャケット

5.「思案橋小路」
(昭和50年=1975、猪又 良・作詞、沢 しげと・作曲、立花みどり・歌)




「思案橋小路(しあんばしこうじ)」という言葉の響きからは艶っぽいムードは感じられませんが、歌の内容は思案橋かいわいの、狭い街の中の、束の間の恋物語です。
長崎市内の観光関係の会社の社長が新しい思案橋の歌を生み出そうと、関係先に働きかけて実現したものです。
その社長が経営する店に歌と同名の店があり、やや宣伝くさい感じもしましたが、当時の思案橋ものはブルースものばかりで、ワルツ調のこの歌は新鮮に聞こえたものです。



「思案橋小路」のジャケット
人物は立花みどりさん



歌のムードも深まるネオン街“思案橋横丁”


6.「思案橋恋灯り」
(昭和60年=1985、馬津川まさを・作詞、中山治美・作曲、瀬川瑛子・歌)




「思案橋ブルース」の大ヒット以後、思案橋は長崎観光のメッカとなりますが、肝心の橋が無いため観光客は戸惑うばかり。
そこで、45年(1970)に欄干の一部が復元され、58年にはガス灯が建ち、翌59年(1984)には花ガスも点灯します。
商店街は思案橋ガス灯通り商店街と改名、この年の夏から「思案橋祭り」や夜市も始まりました。
花ガスは長崎大水害2周年を迎え、水害犠牲者の供養と復興を記念して作られました。思案橋にある銀行のビルの屋上にセットされ、ガスが点灯すると長崎市の花アジサイが七色に輝いて見える仕掛けでした。
この歌は、その花ガスにちなんで作られたものです。
歌詞は地元商店街の上田正男さんらの原案を基に、長崎バスの運転手・馬津川(まつかわ)まさおさんが作詞、地元の作曲家・中山治美(なかやまはるみ)さんが作曲しました。
まず、花ガス点灯に合わせて昭和59年(1984)に自費でテープが作られ、翌60年には「長崎の夜はむらさき」で知られる瀬川瑛子さんの歌で全国発売となりました。


ガス灯と瀬川瑛子さんをあしらった
「思案橋恋灯り」のジャケット



ビルの屋上に点灯した花ガス(昭和59年7月24日)



【もどる】