文・宮川密義

ヒット曲を日常生活や労働の中、あるいは集団生活の中に取り入れて、身近な面白おかしい言葉に置き換え、社会を風刺し、時には批判して胸のつかえをおろしたりする“替え歌”。
長崎の歌に関係するものにも替え歌が歌い継がれています。



1.「エンヤラヤ」〜「ちゃんぽん節」



替え歌は民謡に多く、流れ流れてその土地に根づいて元歌とは違った展開を見せました。
中国福建省福州から長崎にやってきた陳平順という人が明治32年(1899)に考案、今では長崎の味の代表格ともなっている“ちゃんぽん”(バックナンバー「長崎の食べ物讃歌」参照)にも、歌い出しの「すべったかころんだか…」で知られる歌があります。題名はないので、ここでは便宜上「ちゃんぽん節」としておきます。
元歌はこの囃子詞から、平戸や生月、五島あたりで歌われた鯨とりの船唄「エンヤラヤ」といわれています。
「エンヤラヤ」は「勇魚節(いさなぶし)」とも呼ばれ、平戸地方では少し変化して「平戸節」となり、さらに「遺恨十年 戦争が二年 勝った誉が 千代八千代」(福岡県)「あなた政宗 わしゃ錆刀(さびがたな) あなた切れても わしゃ切れぬ」(同)「西郷隆盛ゃ枕は要らぬ 要らぬはずだよ 首がない」(島根県)など多くの替え歌が作られていきます。
そして、食べ物の“ちゃんぽん”が評判になって「ちゃんぽん節」となるわけですが、この歌も「すべったかころんだか開明楼の前で イロハが出て来(こ)にゃ 腰ゃ立たぬ」(牛深)などと、九州各地で替え歌が派生していきました。
長崎では「逢いはせなんだか 五島の沖で 二本マストの トロール船(囃子は同じ)…」の「水産節」が生まれます。
元歌「エンヤラヤ」は船乗りたちによって全国各地の港に持ち込まれ、労働歌「木遣り唄」「最上川船唄」などに変化、丸山明宏さんの「ヨイトマケの唄」でも歌われました。
県内では「うちの姉ちゃんは…」のような卑わいな歌も生みました。詳しくは長崎ペンクラブ機関誌「ら・めえる」45の「長崎替歌考」に書いています。



鯨とりの納屋場で羽刺し唄を歌う羽刺したち
=「勇魚取図会」(長崎県立図書館蔵)から



2.端唄「春雨」


端唄「春雨」(バックナンバー「春雨、浜節、長崎甚句」参照)は長崎丸山で生まれた名曲ですが、替歌の世界でも取り上げられ、多くの歌詞が生まれました。
時期は不明ですが、長崎では右掲の二節が歌われました。題名は不明で、内容から「織物づくし」としました。情緒豊かな元唄とは趣を異にしています。
替え歌は時局を反映、風刺を込めたものが多く、明治27〜28年(1894〜1895)の日清戦争時には戦況に絡んだ次の替え歌が出ています。
「旅順港にしっかり勝った日本兵の 刃風に逃げる支那兵が 金州に押し寄せ しほらしく 此の兵でさえもひと筋の 逃げ道開く気はひとつ わたしゃ凱旋 彼奴(きゃつ)は負け やがて四百余州をとるならば 万々歳じゃないかいな サアサ なんでも勝つじゃいな…」

大正14年(1925)ごろから花柳界で歌われたものに「はやりもの ヴァイオリン ピアノにオルガン 静かに楽しむ蓄音機 走る便利な自動車や お話は電話 電車に飛び乗り叱られた オートバイが大流行 子供が商う夕刊発行 チリンチリン 鳴るのは木馬や豆自動車 危ないよ わたしゃ尺八 主は琵琶 やがて身まゝになるならば ダイヤモンドに指環に金時計 女唐服 腕輪に耳飾り ササ なんでも贅沢ずくめで 暮らしたい…」のように“はやりもの”を羅列して、贅沢な生活への羨望、あるいは社会風刺を込めたものもあります。




3.「九連環」〜「野球拳」


開港以後、長崎にもたらされた中国の音楽「明清楽(みんしんがく)」は市民に浸透し、その代表曲「九連環(きゅうれんかん)」は多くの替え歌を生みました。文化文政のころ(1804〜1830)には「かんかんのう」とそれに合わせて踊る「看々(かんかん)踊り」が長崎から江戸、大坂へと大流行しました。
その大筋はバックナンバー「明清楽・九連環の軌跡」に書いていますが、「九連環」の情緒的な歌詞とは似つかぬ卑わいな歌に変わり、曲調も速いテンポにアレンジされていきます。
替え歌「かんかんのう」はさらに「神田アのふ、急火ですう、半鐘なるべエ、西風(さいふう)、逃(にげ)さんせ、一家(いっけ)は大がい焼けたんべ、めんくがわるくて心配さ…」などの替え歌を生みました。
以後、「法界節」や「梅ケ枝節」などに形を変えますが、それぞれが替え歌を生み続けました。


阿波屋次郎板「長さきまる山
唐人おどり かんかんぶし」
の表紙(長崎県立図書館蔵)
大正13年(1924)には、松山市で行なわれた野球大会の打ち上げの宴で、お座敷ゲームとして「野球するなら、こうゆう具合にしやしゃんせ…」の「野球拳」が生まれました。
昭和32年にはレコードが各社競作で出て人気を集め、松山市では夏祭りに「野球拳おどり」「野球拳サンバ」が登場して、今も熱狂的に踊り続けられています。
それらの曲調の流れを“対照譜”にまとめてみました。



4.「長崎ぶらぶら節」


小説や映画でおなじみとなった「長崎ぶらぶら節」(バックナンバー「史話ぶらぶら節」参照)は「やだちゅう節」の替え歌であり、数多く残っている「ぶらぶら節」の歌詞も、替え歌の替え歌といえます。
元歌「やだちゅう節」は宝永、正徳年代(1700年代)に大流行しましたが、「やだちゅう節」も元をたどると「豊年唄」だったといわれます。
「やだちゅう」というのは「いやだ いやだという」という意味で、宝永3年(1706)に書かれた「摂陽奇観」には「おれをこのよにづんばらましたなア、ごていになれては、おらあやだとじゅうてなア、しんからいやではなけれどもナア、○○おらやんだとじゅうナア…」の詞を載せています。
嘉永3年(1850)には「嘉永三年戌年流行やだ中節」として当初に掲げた「海老が海鼠を…」をはじめ10首が歌われたようです。
長崎で「やだちゅう節」から「ぶらぶら節」になったのは明確ではありませんが、下掲の「長崎ぶらぶら節」の「嘉永七年…」のくだりが最初のようです。
以後、の「長崎名物…」以下が付け加えられたと思われますが、人気が出るとさらに替え歌が出来、その替え歌にまた替え歌〜というように生まれていったようです。
「あんたのシャンスは じんべん来たばいな…」などの長崎言葉が加わり、「長崎訛りは そんげんあんしゃまたち すらごといいますな…」などとも歌われました。
古い歌詞は約30節、レコード時代になって作られたのを合わせると50節近くにもなります。



5.「湖畔の宿」〜「おうちゃよかとき」



「湖畔の宿」(佐藤惣之助・作詞、服部良一・作曲)は昭和15年(1940)に高峰三枝子(たかみねみえこ)さんの歌で出て、大ヒットしました。
戦後まもなく、長崎地方で「湖畔の宿」の替え歌として別掲の歌詞で歌われました。題名は付いていませんでしたが、ここでは「おうちゃよかとき」としました。中年以上の人なら、聴いたり歌ったりした記憶がおありでしょう。
歌詞のとおり、うまい話で女性を口説き、いざというときに逃げ腰になる男性(旦那)に詰め寄る女性。飲み屋あたりで見られるそんな情景を歌ったものですが、ネオン街にとどまらず、一般の女性も口ずさむほど歌われたものです。
これは長崎から九州各地にも流行。昭和50年(1975)にはレコードが2枚出ました。
 峭れとっとよ」(加藤新吾・作詞、松井淳子・補作詞、沢しげと・作曲、三田恵子・歌=あんた寝たとき どげん云うたね…)
◆嵎げたとよ」(石川せいどう・補作詞、沢しげと・作曲、立花みどり・歌=あんたあんとき どげん云うたね…)
歌詞は微妙に違っているものの、どちらも博多弁です。
長崎で歌われた「どげん云うたへ」「騙すとへ」の「へ」の発音は“he”であり、まさしく長崎生まれです。



三田恵子「惚れとっとよ」の表紙


“おうちゃよかとき…”が聞こえそうな夜の銅座


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