文・宮川密義

なかにし礼著「長崎ぶらぶら節」の直木賞受賞以来、長崎の民謡「ぶらぶら節」が注目され、丸山芸妓・愛八と長崎学研究者・古賀十二郎を主人公に、映画、テレビドラマなどが相次ぎました。
小説では愛八と古賀が長崎の古い民謡を探し歩くうちに、「長崎ぶらぶら節」をよみがえらせ、愛八がレコードに吹き込む…という筋書きですが、史実はどうでしょう。

初めて吹き込んだのはだれ?
「長崎ぶらぶら節」の初めてのレコードは1930年(昭和5年)9月に出た町検番の芸妓・凸助(でこすけ)が吹き込んだニッポノホン盤(日本コロムビアの前身)です。
歌詞も歌い方も現在歌い継がれている「ぶらぶら節」とほぼ同じ調子で、歌詞は次の配列です。

〈凸助〉
1.長崎名物はた揚げ盆祭り…
2.紺屋町(こうやまち)の橋の上で 子供の旗喧嘩…
3.遊びに行くなら 花月か中の茶屋…
4.紙鳶(は た)揚げするなら金比羅風頭(こんぴらかざがしら)
5.今年ゃ十三月(じゅうさんつき)肥前さんの番替り(ばんがわり)

〈凸助のニッポノホン盤〉
凸助は本名・山本多満(やまもとたま)。
佐世保市早岐生まれで、幼いとき長崎市新橋町の料亭「一力」の養女となり、女将の肝入りで常磐津などの芸を磨き、町検番の芸者となりました。開局したばかりの放送局に出演するなどして活躍。日本舞踊でも花柳寿太満で名を上げました。


一方の愛八(あいはち)は西彼杵郡日見村(現在の長崎市網場町)の生まれで、東検番の芸者となり、江戸っ子気質にも似た竹を割ったような性格の反面、困った人には財布ぐるみ投げ出してやる温かい心の持ち主でもあり、多くの人から慕われました。東京相撲が大好きだったことでも知られます。
レコードは凸助より7カ月遅れて、1931年(昭和6年)2月にビクターから「ぶらぶら節」など10曲を歌ったレコードが出ますが、愛八の「ぶらぶら節」は愛八の気性をほうふつさせる独特の歌い方で、歌詞も現在歌われているものとは違う次の配列です。

〈愛八〉
1.嘉永七年 甲(きのえ)の寅(とら)の年…
2.今年ゃ十三月(じゅうさんつき) 肥前さんの番替り(ばんがわり)
3.沖の台場(だいば)は 伊王と四郎ヶ島…
4.遊びに行くなら 花月か中の茶屋…
5.梅園太鼓にびっくり目を覚まし…

〈愛八のビクター盤〉

研を競った町芸者と丸山芸者
町検番の町芸者と東検番の丸山芸者は互いに研を競い合い、芸を磨いて長崎芸者のレベルを高めたといわれています。
レコードに吹き込んだ凸助と愛八の「ぶらぶら節」が、まず題名が凸助のが「長崎ぶらぶら節」であるのに対して、愛八の方は「ぶらぶら節」であり、歌詞も2節だけが同じと微妙に違っているのは、やはりライバル意識がそうさせたのではないかと思われます。

「ぶらぶら節」は何を歌っているか
凸助の歌詞は今歌われているものと同じで、長崎の名所名物やのどかな長崎の町の様子を歌っています。
一方、愛八のそれは、帝政ロシアの使節プチャーチン提督が4隻の軍艦を率いて長崎に入港、日本に開国を迫ったときの長崎や港の警備の様子なども歌っています。「今年ゃ十三月…」は、1854年(嘉永7年)が閏年で7月が2度あったことから、ひと月多い「13カ月」となったことを意味しています。
このように、「ぶらぶら節」はさまざまな情景を歌い加えられて今日に及んでいますが、歌詞は新旧合わせると40節を超えています。

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