「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録後、構成資産の集落にある教会堂などを訪れる観光客の数は急増しています。多くの人が心惹かれる山間や海沿いに現存する小さな教会堂……それは、長崎、天草地方で長く苦しいときを越え、信仰を受け継いできた"潜伏キリシタン"たちの悲願、信仰の証です。そして、それらの教会堂建設で重要なカギを握るのが今から約150年前、この地に誕生した大浦天主堂です。
幕末の安政5年(1858)、いわゆる安政の開国により長崎港が開港され本格的な貿易がはじまると、幕府は長崎港を見おろす丘の東山手と南山手、その沿岸部一帯の大浦地区に、長崎外国人居留地を造成。移住してきた外国人たちは、日曜ごとに礼拝する教会が欲しいと願い出ます。はじめ東山手に誕生したのは、アメリカ監督教会のC.M.ウィリアムズによって文久2年(1862)に建てられたプロテスタントの教会(後の英国聖公会会堂)でした。そして、元治元年(1864)、南山手の丘に、西坂で殉教した日本二十六聖人に捧げる大浦天主堂が建てられました。
大浦天主堂は居留地の外国人のために建てられた教会で、当時は"フランス寺"と呼ばれていましたが、主任司祭であるプティジャン神父は教会の正面に日本語で"天主堂"という文字を掲げます。そう、日本人信者の存在を意識していたのです。その予感は見事に命中し、献堂式から1ヶ月後の3月17日、浦上の潜伏キリシタン十数人が訪問。聖堂内で祈るプティジャン神父に近づき「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ(ここにいる私たちはみな、あなた様と同じ心です)」と信仰を告白し、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねました。プティジャン神父は大喜びですぐにフランスから持参していた聖母の前まで導き、一緒に祈りを捧げたといいます。長崎地方の潜伏キリシタンたちが約250年ぶりに宣教師と再会したこの出来事は「信徒発見」と呼ばれ、全世界に驚きと感動を与えました。この「信徒発見」をきっかけに多くの信徒たちが禁教下にも関わらず信仰を表明したため、厳しい弾圧が加えられましたが、諸外国の抗議を受け、ついにキリスト教は解禁されました。そして、各地で信仰を守り続けてきた人々による自分たちの「神の家(教会堂)」建設がはじまったのです。
大浦天主堂内は撮影禁止で写真におさめることができません。ですが、とっておきのポイントはたくさんあります。今回は、大浦天主堂に訪れる際に見逃せないポイントを一部ご紹介しましょう。
潜伏キリシタンたちが密かに信仰を守り続けるために身を潜めていたのは、緑したたる島々や、人里離れた場所。それも山間や船での移動が容易な海沿い に多く、東山手の丘から眺める大浦天主堂は、それらと同様に豊かな木々に包まれていることが分かります。長崎港内を周遊する遊覧船からの眺めは、船からのアプローチもおすすめで、風格漂う大浦天主堂の往時の景観を思わせます。建物がライトアップされる夜間、また夕暮れどきも素敵な風景に出会えます。
入口にある一体の聖母像は、かつてこの町で起こった悲しみと歓びの象徴。幕末の長崎の地で、度重なる弾圧と殉教の悲劇によって途絶えてしまったと思われていた日本のキリシタンたちが発見された「信徒発見」の大ニュースが全世界に伝えられた後、フランスから記念に贈られてきた聖母像です。軽く目を閉じ、見るからに柔らかそうな両手を合わせて祈りを捧げるその姿は、見る者をそっと優しく包み込む慈愛に満ちています。
撮影できない堂内のもののなかで、見逃せないものがあります。それは、右祭壇に祀られた浦上の潜伏キリシタンたちの信仰の告白の一部始終を見届けた"信徒発見のマリア像"、そしてその際、告白をうけたプティジャン神父がひざまずいた場所に設けられたというプティジャン神父の墓碑です。奇跡の瞬間に立ち会ったプティジャン神父は、現在もこの墓碑の下に眠っています。
心の目に焼きつけておきたいものは他にも。日本人棟梁(天草出身 小山秀之進)が手掛けたコウモリが羽を広げたようなリブ・ヴォールト天井と柔らかなステンドグラス越しの光です。創建時、フランスの修道院から贈られた正面祭壇奥"十字架のキリスト"像はもちろん、堂内に身を置いていると静かに移動する柔らかい数多くの光が心を落ち着かせてくれます。ぜひ、この天主堂ができるまでの年月と、できてからの年月に思いを馳せてみてください。
正午と午後六時--港を行き交う船の汽笛が聞こえるなか、フランスから贈られた鐘の音が鳴り響きます。県内各地の教会堂でもそれは同じであるように、構成資産の多くが、今もカトリック信者さんたちの大切な信仰の場です。マナーを忘れず、その信仰に寄り添う形で世界文化遺産にふれる観光をおすすめします。ぜひ、あなたが出会ったベストショットを撮影してみてください。