長崎のまちの成り立ちは、元亀2年(1571)の町建てにはじまります。開港後、貿易の活発化によって、中島川沿いの低地でも埋立等が盛んに行われ、長崎のまちは次第に拡大していきました。
往事、長崎のまちはイエズス会に寄進され、教会領としてまちの至るところに教会が建てられましたが、その後、キリシタン弾圧がはじまると、天領として奉行所や寺社が建ち並ぶようになりました。
その後、寛文3年(1663)の大火により、総町66町のうち57町が全焼しました。長崎に今も残る古い町並みは、この復興にあたって、幕府が道幅を本通り4間(8m)、横町3間(6m)、溝幅を1尺5寸(45cm)と定めたことに由来し、長崎町家もこの頃に誕生し、町人の生活や文化を育んできました。
町並みの特徴は、一つの通りの両側に町家が並び、その両側の地域が一つのまちを形成するといった〈両側町〉。その主な通りは、〈中島川〉と山側に配置された寺院群〈寺町通り〉にほぼ直角に交わるタテの通りと、それらをつなぐヨコの通りで構成されています。タテの通りである「東古川通り」の両側が東古川町というわけです。ちなみにヨコの通りは、長崎でいちばん古い商店街〈中通り商店街〉です。東古川の町名は、かつての大村藩領、戸町村古河からの移住者が住んだことに由来する古川町から分割された3町〈本古川町〉〈東古川町〉〈西古川町〉のひとつなのです。両側町の多くは主に職業に由来する町名がつけられました。ちなみにお隣〈銀屋町〉のほか、〈桶屋町〉〈麹屋町〉なんていう町もあります。
「東古川町」は、昭和41年(1966)に廃止されましたが、住民をはじめとする多くの方々のたっての希望もあって、平成19年(2009)に復活。なぜ多くの方が古い町名にこだわったのかというと、「諏訪神社」の秋の大祭、〈長崎くんち〉に奉納する際の踊町名は「東古川町」のままであり、そういう意味でずっと慣れ親しんできた町名だったから、というのも理由のひとつでしょう。「町家」といえば京都が有名ですが、京都と長崎の町家には違う点が多く見られ、それは、この〈長崎くんち〉の影響を受けているところにあります。
京都の町家に比べ、長崎の町家の間口は狭く、奥行きが長い。通りに面する側から〈ミセの間〉〈中の間〉〈座敷〉と続いて中央に〈中庭〉を配し、この中庭には〈厨房〉と〈便所〉〈井戸〉があり、その奥に〈裏の家〉または〈土蔵〉があるのです。〈長崎くんち〉との関わりを感じさせるのは、〈ミセの間〉の高天井。キリシタンではないことを証明するための行事としてはじまった10月3日、各踊町の演し物を披露する「庭見せ」では、格子戸をはずして開け放つと、通りから座敷、中庭まで見えるようになっているのです。また、2階部分には、座敷の間の窓側に〈連子(れんじ)〉と呼ばれる木材が取り付けられていて、そこに腰をかけ〈庭先回り〉を楽しめるようになっています。
現在の「東古川通り」の魅力は、まるで時が止まったかのように、100年以上前に建てられた町家が残る昔ながらの景観に出会えるところです。また、東古川通りから中島川を渡る橋がないため、交通量も少なく、静か。落ち着いた雰囲気が漂っています。隣町との境には、〈背割り溝〉と呼ばれ、かつて下水道が整備されるまで生活用水が排水されていた町を区切っていた溝が残されていますし、〈背割り溝〉から通じる明治時代に石を敷き詰め造られた三角溝〈ししとき川〉も風情ある佇まいです。飲食店、雑貨店、カフェ、ブティック、魚屋さんからお肉屋さんまで。古い町家を利用したお店、また、この通りにふさわしい新鮮でモダンなお店も増え、歩くだけで心が弾むような通りになっています。
ぜひ、一度、ゆったりした気分のときに、「東古川通り」を散策してみてください。異国情緒「長崎」とはひと味違う、和テイストの「長崎」を発見!……長崎の古くて新しい長崎旧市街を背景に、きっとあなただけのとっておきショットが撮れると思いますよ。
【東古川通り】