江戸時代、鎖国していた日本で公式に交易を許されていた外国は、オランダと中国だけであり、キリスト教の伝播(でんぱ)や、密貿易を防ぐため、オランダ人は「出島」に、中国人は「唐人屋敷」に隔離していたことは、歴史好きのかたならよくご存知のことだと思います。これらの施設は、同時に造られたわけではありません。設立には大きな時間差がありました。
出島が完成したのは寛永13年(1636)で、最初の住人はポルトガル人です。そのポルトガル人が追放されて、代わりに平戸にいたオランダ人が出島の住人になったのは寛永18年(1641)のこと。この頃、唐人たちはどうしていたかというと、寛永12年(1635)に貿易港を長崎だけに限定されたものの、オランダ人のように1カ所に隔離されることはなく、長崎市内の好きな場所に滞在して、日本人商人と自由に取引をすることができました。中国はキリスト教国ではありませんから、隔離する必要がなかったのです。
唐人屋敷が建設される大きなキッカケになったのは「遷界令(せんかいれい)の廃止」です。遷界令とは「沿岸5省の住民を30里内に移住させ、同時に海上での貿易を禁止する」という清王朝が実施した政策で、反逆する鄭成功(ていせいこう)の補給路を断つための対策でした。鄭一族を制圧した翌年の貞享元年(1684)に「展海令」が出されて日本との交易が再開した途端、これまで貿易を控えていた商人たちがどっと長崎に押し寄せてきました。沢山の船が入ってくるということは、それだけたくさんの取引が行われるということです。中国から輸入される貿易品に対して、日本が支払うのは「銀」や「銅」。当時の日本ではこれらの鉱石がまだ採掘されていました。しかしながら、あまりに多くの銀や銅が流出するのは好ましくありません。そこで幕府は貿易高を限定して、それを超えた時点で取引を即停止しました。せっかく命がけで長崎まで来ても、取引できなければ意味がありません。「行っても取引できないから、日本との貿易は止めよう」と考える唐人が増えて、船の数が減少するはずでした。ところが、1685年は85隻、86年は102隻、87年は136隻、そして88年にはなんと193隻にまで達しました。むしろ貿易船の数が増えているのです。これは幕府が知らないところで勝手に取引をしている、つまり「密貿易」をしているということです。確かに、市中に散らばっている中国人のすべての行動を把握するのは不可能。となれば、中国人の貿易を幕府が一括管理するには、出島オランダ商館のように1カ所に収容するしかありません。そうして造られたのが「唐人屋敷」だったのです。
唐人屋敷が建てられたのは「密貿易」を防ぐためですが、もう一つ理由がありました。それは「キリスト教の伝播防止」です。キリスト教国ではない中国からなぜキリスト教が伝わるのでしょうか。実は、以前から中国経由のキリスト教伝播の危険性は報告されていました。寛永21年(1644)の長崎オランダ商館の日記に次のように記されています。
「去る十七日ローマ教の飾りが発見されたジャンク(貿易船)の支那人一同は、水責めと銃身の上を走る拷問とかにかけられて、うち八名はキリシタンであることを自白した。今日まで支那人の中にローマ教徒のあることは想像もされなかったのに、このような小船に教徒8名を発見したので、奉行その他は甚だ奇異の感を懐き、他の船の支那人一同をも驚愕また心配させ、今日までに輸入した商品は殆ど売らずにいる由」
『長崎オランダ商館の日記 第1輯』354頁から抜粋
この日記を書いたオランダ商館長のエルセラックは、幕府の役人に対し「中国には公然とキリスト教を布教する宣教師が多くいるから、中国人が日本との貿易を許されている間は、日本からキリスト教を無くすことはできないだろう」という助言をしていますが、この時点ではまだ中国人を隔離するということはしませんでした。唐人屋敷に中国人を収容したのは、出島にオランダ人を収容してから48年後のこと。出島と唐人屋敷にはそれだけの時間差があったのです。
現在の旅行では、目的地に着いたらすぐにホテルにチェックインして、荷物を預けたりしますが、当時の中国人たちはそうはいきませんでした。唐船が長崎に着いてから唐人屋敷に入るまでには多くの手続と作業があり、全て終了して屋敷に入るのは入港した翌日になることもありました。山脇佛二郎の著作『長崎の唐人貿易』の「唐船の入港から出航まで」を参考に、箇条書きでご紹介します。
●無事に到着した事を祝って船上で銅鑼(どら)や太鼓を打ち鳴らす。
●船に乗り込んできた奉行所の検視や通事から、日本ではキリスト教が禁止されていることなどの説明を受ける
●乗船している人数、出港地と前年にもらった信牌の確認
●配銅証文・積荷帳・人名帳・掟書請証文・風説書の提出
●踏絵を踏まされる
●唐人数名が新地蔵へ移動
●日本の人夫が唐船から荷物を漕船に積み出す
●新地蔵に荷物を運び込む
●唐船内に祀っていた唐船菩薩(ぼさ)を市内の唐寺に運ぶ
菩薩を唐寺に祀った後、ようやく唐人たちは唐人屋敷に入ります。空になった船は、宿町(やどまち)・付町(つきまち)の者が昼夜警備しました。宿町とは、唐人たちが入港してから出航するまでのお世話をする町で、付町というのは宿町の補助的な役割をしていた町です。長崎の80カ町が当番制で受け持っていました。この宿町・付町について王鵬(ほうおう)という中国人が、次のように書き記していました。
「中国船がくると、一つの町が責任をもつ。屋敷内の器物からして、乙名が気をくばる。荷物のだしいれも、すべて世話をやく。船がでるときも、ちゃんと計算して、むだやあやまちのないようにする。中国の商人が倉庫に用のあるときなど、船乗り数十人に食事のしたくをしてくれることもある。ほんのわずかの報酬しかないのに、誠意をもってやってくれるのは感心である」
『外国人の見た日本1』から抜粋
この王鵬という人物は、「わたしは日本にわたり、山にかこまれた唐人屋敷にすんだ。ここからは一歩も出ることができないので、ここで見聞きしたことのあらましをしるしてみる」という書き出しで、王鵬は唐人屋敷の滞在記を記しています。詩文と画をよくした文化人で、天明3年(1783)に長崎で亡くなりました。ではさっそく、彼が実際に暮らした明和元年(1764)頃の唐人屋敷の生活を覗いて見ましょう。
王鵬はまず唐人屋敷の「建物」について記しています。唐人が住むための本部屋は20件近くあり、すべて2階建であること。2階の部屋は立派な構えで、船主や会計係などの身分が高い者が住み、1階は大部屋で船乗りたちが雑居していることなどです。船主が2階の眺めが良い部屋を1人で何部屋も使っているのに対して、船員は1階の大部屋に押し込められていて、ひどい時には1人に1畳のスペースもなかったといいますから、そのような環境で数ヶ月もの長期間暮らすのは大変なことだった思われます。そんなストレスからでしょうか、屋敷内での船員同士、あるいは船主と船員との間のトラブルが『唐人番日記』や『唐通事会所日録』などに多く記録されています。
王鵬は平屋建ての「棚子」があったことも記しています。棚子とは「小座敷」のことで、窮屈な本部屋には住みたくない裕福な唐人が、自分でお金を出して普請させた仮屋敷です。主に船主や客商、医者、画家などが住んでいました。
王鵬は、唐人屋敷でほとんど毎日のように開かれる「宴会」についてレポートをしています。宴にはそれぞれ題目がついていて、「上からふるまう宴会」「下からよぶ宴会」「通事との宴会」「福酒をのむ宴会」「春の宴会」「遊女をもてなす宴会」「蔵しらべや蔵出しのすんだ時の宴会」「ただの宴会」などなど、あらゆる理由をつけて宴会を開いていました。特に、遊女をもてなす宴会には、遊女のほかに屋敷の人々も招いて、それは賑やかにおこなったそうです。こういう宴席1回行う度に「中流家庭の半年分の食費がけしとぶ」と、王鵬は商人たちの金遣いの荒さに驚嘆していました。
宴会は「卓」を囲んでおこなわれますが、卓上に並んでいるのが「卓袱料理」です。『長崎名勝図絵 巻之二』に「シッポク」という語源について興味ある解説が書かれていました。唐人たちがまだ市内に雑居していた時代、現在のベトナムにある都市、広南(カンナン)・東京(トンキン)から来た者が話していた、「卓」を意味する方言「シッポツ」という言葉を、長崎人が中国の言葉だと勘違いしたのが、そのまま広まったとしています。
宴会では「拳令」というゲームで楽しんでいた、という記録も残っていました。お酒を注いだ盃の上で、お互いが数字を言いながら拳を出します。相手の指の数を当てた方が勝ちで。負けた方は盃のお酒を飲み干さなくてはなりません。続けて3回勝つと、今度は買った人が周りの人々から勝利を祝してお酒を勧められる、というひたすらお酒を飲むためのゲームでした。
唐人屋敷の出入りは厳しく管理されていました。入口も2重になっており、波止場に面した広馬場屋と呼ばれる広場の奥に最初の入り口「大門」があります。門を入ると、唐人屋敷を管理している乙名と番人の詰所があります。さらにその奥にもう一つの「二ノ門」がありました。この門の先には、よっぽどの理由がなければ役人であっても入れません。通事であっても用がない限り屋敷に行かなかったそうです。これほどに厳しくしたのは「密貿易」を防止するためです。そんな役人でさえ出入りが厳しいこの唐人屋敷に公然と入ることができる一般人がいました。寄合・丸山両町の遊女たちです。唐人たちの慰安のために例外的に許されていたのです。王鵬は、遊女について気になることを書いています。
「しょっちゅう、したばたらきの女を屋敷から出して、珍しい花とか、くだものとか、珍味をかってこさせて、中国人をよろこばせる。中国人のまよいは、ますます深くなり、湯水の如く金を使うようになる」
『外国人の見た日本1』の159頁から抜粋
「したばたらきの女」とは、遊女の身の回りの世話をする禿(かむろ)のことだと思われます。この禿が「しょっちゅう」屋敷を出入りしていたというのです。このような立場にあった遊女は、時に魔が差して決まりを破ってしまうことがありました。屋敷から無断で物品を持ち出すことは禁止されているにも関わらず、唐人からプレゼントされた珍しいものを黙って外に持ち出そうとしたのです。屋敷を出る際は、「探番」が遊女と禿の持ち物、着物の袖、懐、帯に至るまで念入りに検査しました。ここで持ち出しが発覚して検挙された記録が残っています。「帯に綸子(りんず)と縮緬(ちりめん)を隠していた」「枕に引き出しをつけて金を隠していた」「下駄の歯に引き出しをつけてサンゴを隠していた」などなど。どうしても手に入れたい、という遊女の強い思いが伝わってきます。
唐人屋敷ができる前、唐人たちが長崎市内に滞在していたときは、必要な日々の食料品などは長崎の町で、自ら自由に買うことができました。外に出ることができなくなってからは、長崎の商人が売りに来てくれるようになりました。長崎の商人は、屋敷に入る前に商品検査を受けます。許可が出ると「大門」と「二ノ門」の間にある広場に商品を並べました。唐人も館内から二ノ門に入る前に身体検査を受けてから広場に行きます。唐人と長崎の商人とが売買をする時は、トラブルが起こらないように必ず乙名立会いの上で代金の受け渡がおこなわれました。王鵬も「薪・野菜・魚をしいれるときには、かならずここ(乙名部屋)でしらべる。中国人が銅器・漆器・絹織物・模様ぎれなどを買うときには、乙名がたちあって、まちがいのおこらないようにする」と書いています。
「唐人屋敷かんけいのお寺は三大寺、すなわち興福寺・崇福寺・福済寺で、いずれも中国の僧が住持をしている。江蘇(こうそ)・浙江(せっこう)のひとは興福寺にまいり、福州のひとは崇福寺にまいり、?州(しょうしゅう)・泉州のひとは福済寺にまいる。おねがいまいり、お礼まいり、それから天后の聖誕節(せいたんせつ)には一日遊覧するのが例になっている。また花見にもまねかれる」
『外国人の見た日本1』の169頁から抜粋
唐人が海外で経済活動する場合、同郷の者が集まって協力し合う「幇(ぱん)」という地縁的団体を組織することがありました。長崎における幇の信仰的象徴となったのが唐三箇寺(または聖福寺を加えて唐四箇寺ということもある)です。聖誕節のような節目に外出を許されて、市内の遊覧を兼ねた菩提寺参拝に行くことがありました。普段、屋敷に閉じ込められているだけに、たまの外出は最高の気分転換になったことでしょう。
出島のオランダ人たちはキリスト教の行事を祝うことを禁止されていました。それでもやはりクリスマスくらいは祝いたい。そこで時期的に近い「冬至」を祝うふりをして宴をひらき、各自、心の中では「クリスマス」というようなことをしてしました。これに対して、キリスト教ではない唐人たちは伝統行事を自由に行うことができました。1月1日は「正月」。2日におこなわれる「水かけ」は、各船の火の元番たちが行う行事で、獅子舞などの踊りをしながら、土神堂、天后堂、唐人部屋を練り歩きました。15日の「上元」では「蛇踊り」が登場します。当時の蛇(じゃ)は、約30センチ、60センチ四方の籠(かご)を9メートルほどのながさに繋いで、そこに布を張ってそこに色を付けてつくりました。『長崎名勝図絵』で紹介されている踊る情景は、現在の長崎くんちの龍踊りそのものです。
「また宝珠(たま)をこしらへ、これに長き柄を施して一人これを持ち、右に転じ左にかけり前後に走り巡れば、竜は其の珠を逐ふて踊り狂ふ、蛇形(ぎょう)をつかひあやどるもの、蛇の長さに応じ凡五尺に一人ずつ並び立てこれを弄す」
『長崎名勝図絵』巻之二(下)南辺之部 唐館
さらに夜になると、竜頭より尾に至るまで蛇の中に火が灯されたといいます。これは現在のランタン祭りの光景そのものです。闇に浮かび上がる蛇は、さぞ美しかったことでしょう。この華やかな上元の祝いを、まちなかにいた人たちは小島郷(現小島町)の山手に登って見物していたそうです。
長崎奉行ら長崎の諸役人も招かれて開催された2月の行事が「唐人踊り」です。祭礼日は2日ですが、催しは前後数日間おこなわれました。支配勘定役として長崎に着任した蜀山人(しょくさんじん)こと太田直次郎もその著作『瓊浦雑綴(けいほざってい)』で紹介しています。土神堂を飾りつけ、側には大きな舞台を造ります。この舞台に踊りの得意な唐人たちが集い、様々な衣装を身に着けて、笛・銅鑼・喇叭(らっぱ)などの演奏に合わせて歌って踊ります。踊りの種類には出身地によって南京踊、?州(しょうしゅう)踊など、いくつもの種類があったそうです。水滸伝や三国志などを題材にした芝居も演じられました。
長崎に来るまでの船上で亡くなった唐人や、到着後に屋敷で亡くなった唐人を弔う行事が「彩舟(さいしゅう)流し」です。彩舟流しには「小流し」と「大流し」があり、小流しは毎年(または船毎)、唐大流しは10?20年に1回行われました。小流しでは、長さ約3.6メートルの唐船をつくり、その上に人や荷物の模型を載せ、唐寺の僧を迎えて法要をした後、唐人屋敷前の海岸で船を焼きます。大流しは、航海中や館内で亡くなった唐人の累計が100人を超えたあたりで開催されます。大流しの唐船は長さが7メートル余もあり、半月かけて建造しました。この彩舟のすごいところは、実際の航海に使用している唐船そっくりにつくるところです。大きさ、外観の色はもちろん、船室や舵、帆の所用具。さらに載せる荷物も砂糖や反物、鶏や豚、鴨などの動物まで。そして極め付けは人形。唐人の船頭や飯炊き、水夫や、長崎の諸役人の通事や目利役、荷物を運ぶ人夫までいちいち人形をつくると言うのですから驚きです。船が出来上がると唐三箇寺から僧を招き、三日間読経をしてもらいます。そして屋敷前の海に船を浮かべ、銅鑼や太鼓で囃し立てて神崎白鼻洞まで進めたのち、船を焼いて霊を唐土の故郷へ見送りました。
三国志でお馴染みの「関羽」は現在でも中国で崇拝されている人物です。その関羽の誕生日を祝うお祭りが「関帝祭」。毎年5月13日に行われていました。唐三箇寺でも祝いましたが、特に聖福寺の関帝祭が盛大でした。唐人屋敷の唐人たちは、長崎奉行の許可を得て唐人番の同行のもと、お参りに出掛けました。上元の時もそうでしたが、長崎のまちなかの人々も、この一大イベントを一目見ようと大勢聖福寺に集まったそうです。
7月の13、14、15日は唐寺の盆祭りです、長崎では俗に「アチャさんの盆」といいました。長崎では唐人のことをアチャさんと呼びます。本来は、?州人が目上の人のことを「アチャウ」と言っていたのを長崎の人が聞き覚え、唐人に尊敬の意味を込めて「アチャ」と呼んだことがこの愛称の始まりのようです。
15日に行われる「施餓鬼(せがき)」大法会は、唐寺の盆祭の中でも重要な儀式です。施餓鬼という字面だけを見るとちょっと怖いですね。「餓鬼」とは、生前に欲深い生き方をしたために、餓鬼道に落ちた者のこと。「餓鬼道」とは仏教が説く「六道」の一つで、死後に生まれる世界のことです。餓鬼道では、常に飢えと渇きに苦しんでいなくてはなりません。そんな餓鬼に食物を施す日、それが施餓鬼です。施餓鬼は崇福寺、興福寺、福済寺の3カ寺でおこなわれました。僧の経が終わると、供物の饅頭を四方に投げて餓鬼に施します。元禄14年(1701)7月9日、唐人屋敷でも施餓鬼が行われたという記録も残っています。唐船16隻の船頭たちが、長崎で亡くなった唐人のために3箇寺の住持を屋敷に招き、札場において読経と施餓鬼が行われ、さらに唐人部屋を僧侶が回って祈祷したそうです。
唐人の11月の行事は「冬至」です。オランダ人が冬至を祝う振りをしてクリスマスをしていたことは先述しました。「11月なのにクリスマス?」と思うかたもいらっしゃるかもしれません。旧暦の11月は、西洋歴では大体1カ月後ろにずれますので12月のクリスマスの時期になるのです。
唐人の冬至もオランダ人と同じように宴を開きました。唐人団子を食べるのが恒例だったようです。長崎の地役人である唐通事の家々でも唐人団子がつくられ、長崎奉行所の役人や町年寄、代官、親戚に贈ったといいます。
江戸時代の唐人屋敷の生活はいかがだったでしょうか。既に知っている事柄がいくつも出て来ました。上元の出し物だった「蛇踊り」が長崎くんちの「龍踊り」ですし、亡くなった人を弔う行事「彩舟流し」は「精霊流し」です。宴会で食されていたシッポクは「卓袱料理」。正月から上元までの15日間を祝う風習は「ランタンフェスティバル」として。唐人屋敷での生活文化が、今もごく当たり前に私たちの日常に根付いていることにいまさらながら驚かされます。
【唐人屋敷ゆかりの場所】