長崎市の花「アジサイ」に代表されるように、シーボルトの熱心な研究によって、数々の日本の花が海外へと紹介された。当時の長崎に咲いた花、市民が愛した花などにも触れながら、植物学者としてのシーボルトに迫る。
ズバリ!今回のテーマは「長崎に咲く花、咲かせた花」なのだ。商館長の待医として出島入りしたシーボルトは、寛政8年(1796)、南ドイツのマイン川両岸にまたがるバイエルン王国の学都、ヴュルツブルグに生まれた。シーボルト家は代々医学者。シーボルトもヴュルツブルク大学へ進学すると医学を専攻するが、その際、医学部のカリキュラムの一部だった自然科学(植物学・化学)、地理学、民族学に関心を持つようになる。そしてやがて、シーボルト以前に出島商館医として来日した植物学者ケンペルやツュンベリーの日本研究に魅せられ、日本へやってくることとなる。
シーボルトが長崎・出島の地に下り立ったのは、文政6年(1823)のこと。彼の学識と情熱を知った東インド総督ファン・デル・カペレンの助言もあり、まだ27歳の青年だったシーボルトは、日本の博物学的・民族学的研究調査と日蘭貿易の再検討というオランダ政府の使命を受けての来日だった。
来日して間もなく、シーボルトは長崎近郊への散策の機会をとらえては、自ら珍しい植物を採取したり、標本作成を行ったりしている。当時、オランダ商館員は出島からの外出は許されていなかったが、シーボルトの博学に畏敬の念をはらうオランダ通詞やステュルレル商館長による奉行所への働きかけなどで、シーボルトは外出を許された。また、広域にわたる調査には、シーボルトの名声を聞き、全国各地から集まってきた鳴滝塾に集った門弟たちを派遣。各地の植物を採取した。
文政7年(1824)11月24日付、東インド総督ファン・デル・カペレンに宛てた手紙で、シーボルトは次のような報告をしている。 「昨年すでに私自身の勘案で出島に植物園を作り、ここで珍しい、注目すべき植物を栽培している。この収集のため、私の長崎の外二?三マイルの所への散歩は非常に役立っている。五月に私は弟子二人を肥後と筑前に派遣し、彼等から珍しい博物を得た。(中略)私は彼等から日本各地の数百種の乾燥した植物を得ているし、その中で最も珍しいものは、当地の植物園で栽培するため、生きたまま入手したいと期待している。(中略)私は長崎の植物を大部分集め、乾燥し、最も珍しいものの一部は。植物園で栽培し、また他のものは、写生させた。来年私の植物学の研究をバタビアに提出できると思う」。
シーボルトによって再建された出島の植物園は、シーボルトの植物研究のためのものではなく、実はオランダが植民地経営のために世界に張り巡らせた大きな植物園組織の一角であり、ジャワからオランダへの便船を待つ間の植物の育成と移植のためのものだった。つまり、シーボルトもその一翼を担わされていたひとりで、採集した植物は、長崎出島→バイテンゾルフ(ジャワ)→ケープタウン(南アフリカ)→ライデン (オランダ)とつながる植物園の組織によって移送されていた。この出島の植物園には、シーボルトが帰国する文政13年(1830)までに、日本と日本に定着した中国の有用植物と鑑賞用植物1400種類以上の苗木が植えられた。
かつてケンペルやツュンベリーが手掛けた出島の植物園を復興、再建したシーボルトは、この地に彼らの功績をたたえた記念碑を建立する。出島の植物園の中央に、高さ1.5mの三角形の自然石の記念碑のことだ。制作したのは、出島に出入りしていたオランダ人式墓碑を作る石工だったと伝わる。この記念碑は、シーボルトにとって印象深いものとなったようで、後年、発表したツッカリーニとの共著『日本植物誌』第一巻(1835年)の副表題には、周囲や背後には数多くの植物を配し、これを記念する銅版画が掲げられている。
文政11年(1828)、帰国する際、日本地図など多数の禁制品を持ち出そうとして発覚した「シーボルト事件」により、シーボルトは日本から追放された。それから30年。鎖国政策のピリオドという好機を受け、安政6年(1859)、13歳の長男アレクサンダーを連れ、シーボルトは再び長崎の地を訪れた。この翌年、すでに人手にわたっていた鳴滝の地を購入。かつて慣れ親しんだ水の音と裏山の緑に囲まれ暮らした。当時について晩年の著述に次のように記している。
「科学に対する寛容と尊敬の念を持つ長崎奉行岡部駿河守は、私が戻った時(一八五九年八月六日)に、あらゆる面で私をもてなしてくれた。私が外国人居留地の範囲外に在留し、鳴滝渓谷にある村の傍にある、私の旧友のひとりが所有する田舎家に住むのを容認した。この家は、私はそれを後で手に入れたが、園芸にきわめて好適な向きにある丘陵の傾斜地にあり、木立ととても広大な庭に囲まれていた。私はそこに再び植物園を創設し、日本列島や近隣諸国の最高に興味深い植物を研究し、栽培し、移送の準備に充てることにした」。
万延元年(1860)、シーボルトが再来日した翌年に、スコットランド出身のプラントハンター、ロバート・フォーチュンが長崎を訪れている。彼の主な目的は、偉大なる先学者たちと同じく、日本の植物や植物標本などを収集することだった。誰もが自由に出入りできるようになった出島の片隅で、フォーチュンは、偶然、ケンペルとツュンベリーの名が刻まれた自然石の記念碑を発見する。シーボルトが建立した顕彰碑だ。フォーチュンはかねてより決めていたように、鳴滝にあるシーボルト宅を訪問。そのときの様子を著書『幕末日本滞在記 北京と日本』に記している。
「彼の家は上等な日本建築で、仕事場や書斎に案内された。そこには彼の専攻の博物学に関する、日本各地での研究資料が収集されていた。けれども私が特に心を惹かれたのは、その庭であった」。
シーボルト宅の周囲には家と同じ規模の植物園があり、そこには、各地で集め繁殖させた新種の植物がヨーロッパに送るために準備されていた。そして、そこでフォーチュンは、日本を追放されている間にシーボルトが発表した『日本植物誌』に描写された大部分の実物を目にしたと記している。また、植物を収集拡張するために、家の裏手の丘の草むらを開墾し、整地して様々な植物を栽培するために、適当な土地を手に入れたとも書いている。文久2年(1862)4月、フランスの植物学者シモンが長崎を離れるにあたり、鳴滝のシーボルトのもとへ訪れた際には、その植物園には、1200種近くの植物が一堂に集められていたという。
フォーチュンは、長崎の町を歩いた印象も記している。
「住民のはっきりした特徴は、身分の高下を問わず、花好きなことであった。良家らしい構えのどの家も、一様に裏庭に花壇を作って、小規模だが清楚に整っていた。この花作りは、家族的な楽しみと幸せのために大変役立っていた」。中流階級以下の民家や商店は表や裏が開け放たれていたため、フォーチュンは町を歩きながらささやかな花壇を覗き見している。芝の築山の楽しい眺め、そこに植えられた面白い形に刈り込まれた盆栽、池には金魚や銀魚が放たれ、亀が興を添える……長崎の人々が普段行っている家から庭を眺める気持ちよさを実感している。また、高台の住宅地にある役人や豪商たちの家は、決まって一面に芝を敷き、築島や池を配した高級庭園があった。そのような庭で、フォーチュンはシナでも世界のどこでも見たことのない大きなツツジを目にしている。
「その一本を測って見ると、周囲が40フィートもあった。いずれもきれいに円形に刈り込まれていて、上部がちょうど食卓のように、まったく平らに手入れされてあった。花盛りの時はさぞ華麗な眺めだろう」。
ほかに彼がよく目にした植物は、ソテツ、ツツジ、松、観音竹、シダ類、ツワブキなどがあるが、これらは下層社会でも愛玩している花だった。
資料名/Flora Japonica Vol.1
FLORA JAPONICA、和名和書名「シーボルト日本植物誌」
シーボルト*ニホン*ショクブツシ、オリジナル番号2 185-1 1の中のツワブキ/m-40_2-185-1-1-36
シーボルトの植物学への目覚めを与えた大先輩にあたるケンペルとツュンベリー。ふたりもシーボルトと同様に、長崎で、あるいは江戸参府の往来時に、東洋の端に位置する日本特有の植物を採種。日本文化の研究成果を広くヨーロッパへと伝えた。ヨーロッパにおける日本観は、彼らによって形成されていったといっても過言ではない。そして、彼らが伝えた年代によって、一大日本ブーム〈ジャポニスム〉が起こっている。
シーボルトは、チャ(茶)、ツバキ、サザンカ、モッコク、サカキのようなツバキ科の植物に注目した。特にツバキの覚書きは長く、来歴や特徴、分布、薬効などのほか、園芸上の利用にも詳しく記しているが、江戸時代、あまり注目されなかったサザンカにも愛着を示し、日本庭園におけるサザンカの様子を覚書きにこう綴っている。
「密生して輝くような葉群も、花の鮮やかさも、それが冬に姿をみせるということで輪をかけて珍重され、日本の観賞植物のなかでも抜きんでた地位をこの植物にあたえている」。
資料名/Flora Japonica Vol.1
FLORA JAPONICA、和名和書名「シーボルト日本植物誌」
シーボルト*ニホン*ショクブツシ、オリジナル番号2 185-1 1の中のサザンカ/m-40_2-185-1-1-84
1835年初版『日本植物誌』でシーボルトが「冬のバラ」とロマンチックな名で紹介したツバキ「Camellia japonica」。発表後、ツバキは花木の貴族とたたえられ、ヨーロッパで一大ツバキブームが起こった。パリでは、紅白のツバキのコサージュや花束が夜会のアクセサリーとして人気を集め、オペラ『椿姫』が誕生。シャネルのカメリア・シリーズも、ココ・シャネルが最も愛したツバキの花から生まれたものなのだ。
Flora Japonica Vol.1
FLORA JAPONICA、和名和書名「シーボルト日本植物誌」
シーボルト*ニホン*ショクブツシ、オリジナル番号2 185-1 1の中のツバキ/m-40_2-185-1-1-83
シーボルトの時代には、植物を生きた状態で長い時間の輸送に耐える工夫や技術が発展していた。日本の植物でヨーロッパの庭園を変革しようと考えたシーボルトは、この目標に向けて様々な行動を起こし、実際に日本の植物をヨーロッパの庭園に導入すること、ヨーロッパの人々に浸透させることに成功した。
毎年6月、鳴滝塾跡、シーボルトの銅像のまわりには、清楚ながらも存在感のある面持ちのアジサイの花が咲き誇る。シーボルトは、妻お滝への愛を込めて、このアジサイの花に彼女の愛称、オタクサ「Hydrangea otaksa」の学名を与えた。離ればなれになってしまった愛しい妻。清楚なアジサイの花にその妻の姿を重ね、シーボルトは生涯想いを寄せていたのかもしれない。シーボルトが日本を離れた後に発表した『日本植物誌』は、シーボルトのお抱え絵師として知られる川原慶賀ら日本人絵師の下絵をもとに、1835年より多数に分け発表。後に購入者がまとめ一冊の本にしたもの。現在、長崎市シーボルト記念館には、発表当時の現物が保管されている。
資料名/Flora Japonica Vol.1
FLORA JAPONICA、和名和書名「シーボルト日本植物誌」
シーボルト*ニホン*ショクブツシ、オリジナル番号2 185-1 1の中のアジサイ