その精密さと美しさで海外でも高い評価を受けた「伊能図」。文化9年から10年にかけて、長崎各地を測量した伊能忠敬の足跡を、彼が記した『測量日記』を元に辿る。当時、彼らが目にした長崎の風景、町の様子、地元の人との交流とは? シーボルト事件にも関与?


ズバリ!今回のテーマは
「長崎を隅々まで歩いた男の結晶の話」なのだ



 

日本地図の基礎を築いた

伊能忠敬という人物
60歳越えての長崎歩き

伊能忠敬(いのうただたか)。その名を知らない人はそうはいないことだろう。忠敬は、江戸時代、日本国中を測量してまわり、初めて実測による『伊能図』と呼ばれる日本地図を完成。明治以降国内の基本図の一翼を担い日本史にその名を残す、幕末日本の偉人の一人だ。

伊能忠敬の肖像画
伊能忠敬記念館所蔵

お察しの通り、ナガジン!で取り上げるからには、忠敬は長崎を訪れている。いやいや、「測量隊として上陸した」という方が適当な表現かもしれない。

忠敬らの測量は、1800年〜1816年までの間、実測日数で3736日という長い歳月をかけて行なわれた(第1次測量〜第10次測量)。その距離は、実に地球一周を超えるもので、欧米人の力を借りずに自国の正しい地図を作ったのは、当時アジアでは日本だけだったという。
『伊能図』には、1821年完成の『大日本沿海輿地全図』(大図214枚縮尺1/36,000、中図8枚縮尺1/216,000、小図3枚縮尺1 /432,000)のほか、測量ごとに作った地図や名勝地を描いたものなど約400種類もあるが、その大きな特徴は、どの地図も実際の測量に基づいているため、とても正確であるとともに、芸術的な美しさを備えていることだ。

手書きで作成されたその地図は、描画、彩色ともに丁寧かつ美しく、文字も巧緻を極めている。


最終版伊能大図/部分拡大・長崎周辺
松浦史料博物館蔵

忠敬がはじめて長崎に足を踏み入れたのは、文化8〜11年(1811〜14)の第8次測量で、いわゆる九州第2次測量。すでに66〜69歳の高齢だった。文化8年11月25日江戸を出発。この時の随行者は忠敬が最も信頼を寄せた測量旅には欠かせない坂部貞兵衛(さかべていべえ)ほか全部で19名。その中には、後に子爵となる幕末の幕臣 榎本武楊の父にあたる箱田良助もいた。

離島を含め、伊能隊が巡った長崎ルートは以下の通り。

3月13日(文化9年)壱岐に向かう途中に二神島を実測。
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壱岐郷の浦に着泊(全島の沿岸街道や属島等を実測)。
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壱岐勝本で順風を待つこと4日、3月28日出帆、対馬厳原着
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3月29日より測量を開始し、全島実測。
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5月22日府中出帆宇久島に赴く。
7月29日を以って五島の測量終了(7月晦日福江を出発し九州本土に向かう)。
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途中、平島大島等を測る。
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8月8日彼杵半島に帰航(北端より起測)。
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西海岸を南進し8月17日長崎に到着(長崎の主要道路を測量)。
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9月3日長崎を出立。(沿海測進野母崎回り、4月15日矢上村付近にて昨年の島原方面よりの終測点に連接。九州全海岸線測量完結。
 

さて、そんな忠敬の測量隊(伊能隊)の様子を後世に伝える重要な資料が『測量日記』。これは、忠敬が56歳から72歳までの16年間、日本全地を測量した際の日記で、清書されたものが28冊、伊能家に現存している。そのうち、第1冊から第26冊までは、すべて忠敬の手記によるもので、27、28冊の伊豆七島測量日記は、老いて同行できなかった忠敬に代わり、出張した門人が記した。
 

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