『まちぶらプロジェクト』とは、ひと言でいうなら「まちなか活性化10年計画」です。平成25年にスタートして、現在3年目。プロジェクトには三つの大きな目標があります。
1つ目は『まちなかの魅力づくり』、2つ目は『軸づくり』、3つ目は『市民と企業と行政をつなげる仕組みづくり』です。1つ目と3つ目は「文字通り」なのでご理解いただけると思います。わかりにくいのが2つ目の『軸づくり』。「軸」とは「まちなか軸」のことで、商店街がある新大工エリアから、大浦天主堂がある大浦地区までを結ぶ「一本道」を、長崎の町中をつらぬく重要な道と見なし、これを「まちなか軸」と呼んでいるのです。3キロに及ぶこの「軸」を『新大工エリア』『中島川・寺町エリア』『浜町・銅座エリア』『館内・新地エリア』『東山手・南山手エリア』に5分割しました。なぜ分けたのでしょう。実はここに、このプロジェクトの根幹といってもよい、大事な理由があるのです。各エリアが「独特な個性」を持っていることにお気づきでしょうか。例えば、寺が連なる「和」文化の象徴『中島川・寺町エリア』、中華街や唐人屋敷があり中国文化が色濃い『館内・新地エリア』、洋館が建ち並びエキゾチックな『東山手・南山手エリア』。このような異文化が同居する「まちなか軸」が、日本人の持つ一般的な「長崎のイメージ」をつくったといえます。
この5エリアの個性を市民・企業・行政がタッグを組んで顕在化し、町々を活性化していこうというのが『まちぶらプロジェクト』なのです。
神奈川県で「かんない」と言えば、横浜「関内」のことを指します。「関門(関所のようなもの)の内側」というのが言葉の由来で、横浜中華街、山下公園、横浜スタジアムなどがあるエリアです。かわって長崎で「かんない」と言えば、「館内」のことを指します。こちらは「唐館の内側」、つまりその昔この地に「唐人屋敷(唐館)」があったことに由来しています。唐人屋敷とは、来崎した中国の貿易商人たちが滞在したところで、江戸時代に造られました。歴史好きの方は疑問に思ったのではないでしょうか。江戸期の中国は「清」の時代、したがって「清人屋敷」と呼ばれるべきではないのかと…。ごもっともです。「唐」と言えば「楊貴妃」がいた頃ですから、日本だと飛鳥・奈良・平安時代。なぜ、こんな1000年近くも前に栄えた王朝名で呼んでいたのでしょうか。山本紀綱氏は『長崎唐人屋敷』の中で、次のように分析しています。
「唐という文字そのものは、中国歴朝のなかで、随朝のあとをうけて国力充実し制度・文化ともに栄えて、その治世が隆盛であった李淵(高祖)の唐朝(李唐)の唐のことであって、近世までわが国人が文化的先進国であった中国のことを、その唐朝の唐をもって表徴的に汎称したものである」
「明末清初の時期においては明人みずからその反清的思想によって、自分たちは夷狄清の民ではないということを示すため、南京(人)とか唐(人)と称したともいわれている」
唐人、唐寺、唐船、唐物、唐風、唐通事などの呼び方は、明治維新まで続きました。これは開港後の長崎人が、イギリス人でも、アメリカ人でも、西洋人はすべて「オランダさん」と呼んでいた事と似ています。一度、固有名詞化してしまうと、なかなか変えられないのでしょう。
唐人屋敷は、「中国の貿易商人たちが滞在していたところ」と紹介しましたが、実情としては「滞在」というよりも「隔離」の方が正しいかもしれません。屋敷は高い塀で囲まれていて、敷地の外には出られないようになっていますし、入口も「大門」「二の門」二重になっています。ポルトガル人やオランダ人を出島に隔離した理由はキリスト教の伝播(でんぱ)を防止するためでした。同じ東洋人で、キリスト教でもない中国人を、なぜ隔離する必要があるのでしょう。それは〝中国経由でキリスト教が入ってくる〟ことを警戒したからです。出島が寛永13年(1636)に完成して、西洋人が隔離されて以降も約50年、中国人は以前通りに長崎市中で自由にすごしていたのですが、中国でもキリスト教の布教は行われていましたから、幕府はキリシタンになった中国人から布教が行われる可能性を恐れたのです。
唐人屋敷に隔離されたもう一つの理由は「密貿易」を防止するためでした。天和3年(1683)、遷界令(中国の貿易禁止令)が解かれたことで、唐船の来航が一気に増加。その結果、日本から大量の銀が流出し、貞享2年(1685)、幕府はあわてて貿易量に制限を加えました。そうなると、せっかく荷物を積んで長崎まで来たのに、取引できずに帰される唐船が出てきます。黙って帰っては大損害。なんとか日本人と裏取引をしようとする中国人が続出したのです。
以上のような理由から、元禄2年(1689)、十善寺郷の御薬園の地に「唐人屋敷」が造営。この年、屋敷に入館した中国人の延べ人数は4,888人にも及びました。当初の面積は約6,800坪でしたが、徐々に拡張されて、19世紀初頭には9,373坪という広さに。これは出島の約2倍の規模です。
以降、日中貿易の拠点として大きな役割を果たしてきましたが、安政6年(1859)、安政の開国により唐人屋敷による隔離政策は撤廃されました。居住者もめっきり少なくなった明治3年(1870)、大火に見舞われ焼け野原になり、この地は民間に払い下げられることになりました。大正2年(1913)に郷名が廃止になり、旧十善寺郷館内と広馬場町の一部が合併して館内町が誕生、現在に至ります。
唐人屋敷ができて9年経った元禄11年(1698)、後興善町の末次七郎兵衛宅から出火、22カ町が延焼する「元禄の大火」が起こりました。この際、本五島町・浦五島町にあった土蔵18棟も焼けたのですが、中には唐船20隻から運び込まれていた荷物が入っていたのです。これは大変な被害です。何らかの対策をとらなければなりませんが、消防車が無い時代、いったん火事が起こってしまうと、どうしようもないのです。そこで考えたのが「海上倉庫」。燃えた土蔵の所有者たちが、唐人屋敷前の海を埋め立てて新地を築く「唐船貨物専用蔵」の建設を長崎奉行に申し出たのです。翌年、幕府から許可がおりて海面の埋め立て工事がはじまりました。実に3年かけて元禄15年(1702)に「新地蔵」が完成。面積は3,500坪。出島(約4,000坪)より少し小さいくらいの人工島で、中には60もの蔵が建ち並びました。
せっかく造った蔵ですが、正徳5年(1715)に大規模な貿易管理政策「正徳新令」が発令されて日中貿易は縮小し、肝心の貨物が減ってしまいました。空っぽの蔵では意味がありません。そこで日本側の物資も収蔵することに。明和2年(1765)に米と銅、寛政12年(1800)に囲籾(かこいもみ)、昆布やその他の海産物蔵、長崎会所荷物蔵として利用されたということです。さらに安政の開国後になると人も住みはじめました。唐館に在留していた中国人が移り住んだと考えられています。これは最初「不法占拠」として問題になりましたが、慶応4年(1868)には居留地として認められていたという記録が残っています。250年の歳月をかけて「荷物蔵」から「居住地」に変化したのです。明治3年(1870)、今度は「島」でもなくなりました。前年からはじまった埋め立てによって、南東側の海面が築地され、周辺を運河として残しつつも4方につながり、地続きになったのです。そして昭和39年(1964)、梅ヶ崎町・常磐町・本籠町の各一部と合併して、現在の新地町になりました。以前、人工島の「新地蔵」だったエリアは今「中華街」になっています。歴史の不思議を感じずにはいられません。
館内町には、唐人屋敷時代を偲ばせる建築物が残っています。土神堂(1691年建立、1977年復元)・天后堂(1736年建立)・観音堂(1737年建立、1917年改築)ら3つのお堂で、これらは江戸期の唐人屋敷絵図にも描かれています。明治元年(1868)、貿易商人らによって建てられた福建会館(正門・天后堂)と合わせて、かつてこの地に中国文化が根付いていたことを象徴する貴重なお堂です。唐人屋敷顕在化事業の一環として、この点在する4棟のお堂を回遊するための道を石畳で舗装しました。また、唐人屋敷の存在をアピールするために広馬場商店街入口には「誘導門」を、唐人屋敷の入口付近だったところには「大門」を建設しました。さらに、同じ館内町より明治期の蔵を現在の場所に曳家(ひきや)移転・改修し、「蔵の資料館」として平成27年に開館しました。
唐人屋敷は、明治3年(1870)に大火に見舞われ焼け野原になり、その後この地は民間に払い下げられることになったことは先述しました。その際、一帯を買い上げ大地主になったのが森伊三次(もり いそうじ)です。長崎県議会議員もつとめた地元の名士で、館内町に現存している石橋「森橋」「森伊橋」「榮橋」も伊三次が架設したもので、先述した蔵も伊三次が創建されたものです。ちなみに、ブリックホールがある茂里町は海を築地して出来た町ですが、この町名はこの地を開発した伊三次の名字「森」が由来になっています。
出島も新地蔵も最初は人工島でしたが、明治以降周囲が埋め立てられて、現在のような地続きになりました。出島から新地蔵方面に行く道にもまちぶらプロジェクトが関わっています。ジブラルタ生命保険(株)が入居しているNK出島スクエアビル前の通りは以前、道幅が狭く歩行しにくかったのですが、ビルの1階部分を内側にへこませ、できたスペースを歩道にする「セットバック」方式にすることによって車を気にすること無く歩くことができるように。出島を見学した後、中華街や館内へ向かう環境のよい導線ができました。