『まちぶらプロジェクト』とは、ひと言でいうなら「まちなか活性化10年計画」です。平成25年にスタートして、現在3年目。プロジェクトには三つの大きな目標があります。
1つ目は『まちなかの魅力づくり』、2つ目は『軸づくり』、3つ目は『市民と企業と行政をつなげる仕組みづくり』です。1つ目と3つ目は「文字通り」なのでご理解いただけると思います。わかりにくいのが2つ目の『軸づくり』。「軸」とは「まちなか軸」のことで、商店街がある新大工エリアから、大浦天主堂がある大浦地区までを結ぶ「一本道」を、長崎の町中をつらぬく重要な道と見なし、これを「まちなか軸」と呼んでいるのです。3キロに及ぶこの「軸」を『新大工エリア』『中島川・寺町エリア』『浜町・銅座エリア』『館内・新地エリア』『東山手・南山手エリア』に5分割しました。なぜ分けたのでしょう。実はここに、このプロジェクトの根幹といってもよい、大事な理由があるのです。各エリアが「独特な個性」を持っていることにお気づきでしょうか。例えば、寺が連なる「和」文化の象徴『中島川・寺町エリア』、中華街や唐人屋敷があり中国文化が色濃い『館内・新地エリア』、洋館が建ち並びエキゾチックな『東山手・南山手エリア』。このような異文化が同居する「まちなか軸」が、日本人の持つ一般的な「長崎のイメージ」をつくったといえます。
この5エリアの個性を市民・企業・行政がタッグを組んで顕在化し、町々を活性化していこうというのが『まちぶらプロジェクト』なのです。
2016年、リオデジャネイロで31回目の夏期オリンピックが開かれました。南米での開催は初めてということもあり、世界中が注目した大会でもありました。オリンピックの開催前にテレビでよく目にしたのが、関連施設の建築の遅れを報じるニュースでした。さまざまな理由で工事が難航している映像が報道されて、「はたして大会に間にあうのだろうか」と気をもんだかたも多かったのではないでしょうか。最終的には無事に完成して、すべての競技が滞り無く行われ、沢山の感動的なドラマが生まれました。これは、「ブラジルの誇りにかけて大会を成功させなくては!」という大会運営者及び工事関係者たちの努力の結晶であり、閉会式を迎えた時は喜びもひとしおだったに違いありません。
幕末の長崎でも、日本の誇りをかけて大工事をおこなった人たちがいました。熊本からやって来た総勢1,000人を越える「チーム天草」です。リーダーは、天草赤崎村の庄屋、北野織部。この北野家分家筋の末裔(まつえい)である北野典夫は著書『天草海外発展史・上巻』で織部を「長崎開港の隠れたる父」とたたえました。織部率いるチーム天草は、いったい長崎でどのような偉業を成したのでしょうか。
チーム天草が成し遂げた偉業は「大浦外国人居留地の造成」です。居留地とは、貿易などの目的で来日した外国人たちが、住んで、仕事をするための特定エリアのこと。鎖国を続けていた日本も、嘉永6年(1853)の黒船の来航により開国せざるを得なくなりました。安政5年(1858)にアメリカ・イギリス・ロシア・オランダ・フランスと修好通商条約を結び、翌、安政6年(1859)の6月2日をもって長崎・横浜・函館の3港を開港することが決まったのです。そうなれば、各国の外国人が大勢長崎にも上陸してきます。現在を生きる私たちには、ちょっと想像がつきにくいのですが、幕末期は日本にやってくる外国人を排斥しようという「攘夷(じょうい)論者」が沢山いました。これまでは、オランダ人は「出島」に、中国人は「唐人屋敷」に隔離していたので、日本人と直接会う事もほとんどありませんでしたが、6月2日以降はそうはいきません。一定の範囲内であれば、自由に歩く事ができるのです。攘夷論者と外国人が鉢合わせしたら、何が起こるかわかりません。そこで、隔離とまではいきませんが、居留地という外国人だけの場所をつくれば無用なトラブルをある程度防ぐことができます。
老中の堀田備中守正睦は、開港による居留地造成を見越していたようです。開港が決まる1年前の安政4年(1857)に、大浦(戸町村)の地をすでに確保していました。本来、ここ戸町村は大村藩の所有地でしたが、高来郡古賀村を代替地に交換させていたのです。海に面した大浦海岸地を埋め立てて居留地にするという計画ですが、埋め立てなんて手間のかかることをせず、陸地に造ればいいのにと思ったかたもいるでしょう。ところが山に囲まれた長崎港、海に面していてかつ市中に近い、まとまった広い土地など無いのです。長崎奉行は最初、稲佐地区を候補に上げましたが、土地が狭いため「港」と「住宅地」が離れてしまうことを理由に、江戸の老中から却下されました。さらにこれらの日本側の造成案に対して、英米の外交団側からも駄目出しが連発。長崎と江戸と外交団の間で「ああでもない、こうでもない」とやり取りしているうちに、どんどん時が経ち、ようやく場所が大浦に決まったのは開港日を約3ヶ月以上過ぎた9月22日のことでした。すでに外国人は入港して来ており、市中に住み始めていました。すぐにでも居留地を完成させなくてはならないのですが、海岸の埋め立てをする広さが18,525坪もあります。東京ドームの建築面積14,168坪よりもはるかに広い海面を、全て人力で埋め立てようというのですから、それは大変な話です。
すでに2月から始めていた工事請負人募集には、応募者が集まりませんでした。ようやく長崎の商人2組が手を上げたのですが、どちらも埋め立て出来る範囲が小規模で、まだまだ全然足りません。そんな中、ようやく8月になって残りの全ての埋め立てを請け負うという人物が現れました。それが先に紹介した北野織部です。あまりにも工事のスケールが大きすぎて手が出ない長崎人に変わって、リスクを背負ってこの大事業を引き受けたのです。居留地研究の第一人者、菱谷名誉教授は著書『長崎外国人居留地の研究』の中で、織部のことを「時の氏神」とたたえています。干拓が盛んだった天草には、技術、人材、道具などを用意できるだけの準備がととのっていたのです。ちなみに織部は、もともと天草・大島の庄屋小山家の3男に生まれましたが、北野家に養子に入り北野姓になりました。この小山家の末っ子が秀之進。そうです、大浦居留地を代表する建物「大浦天主堂」「グラバー邸」を建てた人物です。映画『おくりびと』の脚本でも有名な放送作家、小山薫堂(くんどう)氏は秀之進の尊孫にあたります。
翌年の3月に完成させる予定で工事がスタートしましたが、予想外のトラブルが多発、工事は遅れに遅れ、竣工したのは万延元年(1860)の10月。織部が埋め立てた最終的な坪数は19,977坪にも達しました。完成に至るまでの紆余曲折は、北野典夫氏と菱谷武平氏の著作に詳しく書かれていますので、ご興味があるかたはぜひご覧になってください。
文久3年(1863)、この造成地に正式に町名が付けられました。梅ヵ崎町・常盤町・東山手町・大浦町・南山手町です。大浦居留地はその後、建物や道路・石垣・排水溝などが建設され、明治3年(1870)に最終的な完成を見ました。
もう一つ忘れてはならないのが、先祖代々大浦に住んでいた住民のことです。住民の多くは「半農半漁」で生計をたてていた浦百姓でした。約100軒あった家屋は居留地造成のため立ち退きを迫られて、畑と便利の良い船着き場も失ったのです。行き先は長崎湾を南下した浪の平・古河の海岸。ここを住民自ら埋め立て工事を行い、万延元年(1860)の11月に引っ越し、ようやく安住の地を得たのです。昭和49年(1974)の町界町名変更で、浪の平町と南山手町に分かれました。
浪の平町の手前にある小曽根町は、豪商小曽根六左衛門(坂本龍馬らを支援した小曽根乾堂・英四郎の父)が、文久年間に屋敷前を自費で埋め立てた小曽根築地です。昭和49年(1974)の町界町名変更で、小曽根町と松が枝町に分かれました。
チーム天草が大規模造成を成し遂げてから140余年、本居留地に面した海岸で、再度大規模な埋め立てが行われました。昭和54年(1979)から検討がはじまり、61年(1986)に策定された「ナガサキ・アーバン・ルネッサンス2001構想」は、松山地区から松が枝地区までの広い範囲で長崎港再開発の各種事業を県と市が実施するという大プロジェクトでした。中でも常盤・出島地区の築地はこの事業を象徴するものです。この広大な埋立地に造られたのが長崎水辺の森公園(2004年)・長崎県美術館(2005年)・長崎出島ワーフ(2000年)・AIG長崎ビル(2005年)などです。外国人の居留地から長崎水辺の森公園へと、南山手・東山手エリアは時代と共に大きく変化していきました。
相生(あいおい)地獄坂・祈念坂・国際あいさつ通り・新相生通り。相生町を歩いていると、ユニークなデザインの看板が目を楽しませてくれます。これらの町案内看板は、第一相生町自治会が長崎県立大学シーボルト校学生のデザインにより製作されたものです。普段、歩いている通りや坂に個性が生まれました。
南山手地区・町並み保存会は、活水女子大学と連携し、町の情報をゲットできる〝栞(しおり)〟をつくってくれました。「洋館とりっぷ」と題して大浦天主堂・旧グラバー住宅・東山手十二番館などの独立した栞があり、裏側には、建物の歴史解説と住所や開場時間などが記されています。注目なのは裏面下部にある「QRコード」。これをスマートフォンなどで読み込むと地図や写真、イベント情報などの情報を閲覧できるホームページにアクセスできます。ぜひ試してみてください。
洋館に映える花といえば「バラ」。まちぶらプロジェクトでは、地域住民などと洋館や通りの花壇にバラを植えて居留地の雰囲気を演出ています。実はこの試みは、他のエリアでも行われていて、中島川・寺町・丸山エリアでは「アジサイ」を植栽。花を使って、各エリアの魅力の向上を図っています。