文・宮川密義


1.「ばてれん娘」
(昭和12年=1937、佐藤松雄・作詞、佐々木俊一・作曲、橘 良江・歌)


昭和14年(1939)に出て、長崎の歌の全国ヒット第一号ともいえる「長崎物語」(バックナンバー18「禁教の悲劇を歌う」参照)の曲は、実は「長崎物語」の2年前(昭和12年)に出た「ばてれん娘」の再生品でした。
梅木三郎(うめき・さぶろう)の「長崎物語」の詞を見たレコード会社のディレクターが、ヒットしないままに終わった「ばてれん娘」の曲に当てはめてもらい、由利あけみに歌わせました。
「ばてれん娘」は天草を舞台にしていますが、「長崎物語」と同じ禁教政策による混血児海外追放の受難の娘をテーマにしています。
これを歌った橘良江(たちばなよしえ)は別名・斎田愛子(さいだ・あいこ)。昭和初期のアルト歌手で、カナダ生まれ。日本では昭和10年(1935)に歌手デビューし、藤原歌劇団でオペラに出演したほか、ジャズや歌謡曲もこなしました。
一方、「長崎物語」の由利あけみは本名・加藤梅子。オペラ「蝶々夫人」のスズキの役で好評を博し、歌謡曲でも「熱海ブルース」と「長崎物語」のヒットで評判を取りましたが、まもなく大蔵省の高官と結婚し引退します。
戦後、「長崎物語」がリバイバルヒットした時、由利に代わって斉田愛子が吹き込んだレコードが出ました。


2.「長崎ぴんとこ節」
(平成8年=1933年、西岡水朗・作詞、藤井清水・作曲、作 栄・歌)


長崎出身の作詞家、西岡水朗(にしおか・すいろう=バックナンバー6「古き良き時代を歌う」参照)の、長崎の伝説を取り入れた作品です。
「ぴんとこ」は長崎市内上小島、丸山の上にある芸妓・愛八(あいはち=バックナンバー1「史話『長崎ぶらぶら節』参照)の墓の近くに通じる坂道に付けられた名前。長崎名勝図絵にもあり、坂には伝説が隠されています。
元録の昔、何旻徳(か・ぴんとく)という中国の若い商人が丸山遊女・阿登倭(おとわ)と恋仲になりますが、阿登倭に横恋慕した代官にニセ金作りの犯人に仕立てられ、殺されます。悲しんだ阿登倭はその代官を殺し、自分も旻徳の後を追って自殺します。その旻徳の名を取って「ぴんとこ坂」と呼ばれるようになったとか。坂の途中には阿登倭を葬った傾城塚があります。
一方、この辺りは昔、「小田(こだ)の原(はら)」といわれ、人家の少ない所でした。道も石ころやデコボコが多く、人は飛び歩いていたということから、「ピントコ坂」と呼ばれ、後になって旻徳の伝説と結び付いたという説もあります。
長崎のわらべ歌にも『トコピントコ、小田の原、こやしたんご(肥料桶)の置き所…』と歌った「トコピントコ」がありました。


「長崎ぴんとこ節」のレコード・レーベル


ピントコ坂
(芸妓・愛八の墓の上手から撮影)


3.「長崎音頭」
(昭和29年=1954、藤浦 洸・作詞、古関裕而・作曲、藤山一郎、奈良光枝・歌)


終戦から10年近くすぎた長崎では国際文化都市建設も軌道に乗っていました。昭和29年7月には長崎市観光協会が発足。同時に観光長崎のアピールのために「長崎音頭」「長崎小唄」も作られました。
2曲とも平戸出身の藤浦洸(ふじうら・こう)・作詞、「長崎の鐘」の古関裕而(こせき・ゆうじ)・作曲。歌も藤山一郎・奈良光枝の人気歌手を起用。「長崎小唄」は「トンコ節」で有名な久保幸江(くぼ・ゆきえ)とベテランぞろいでした。
2曲とも長崎日日新聞社と長崎放送(NBC、当時はラジオ長崎)が選定し、県観光連盟が推薦。発表会は同年8月24日に長崎日日新聞社の主催で、映画館の長崎松竹国際で開かれ、ゲストにコロムビア・ローズと鳴海日出夫を迎えました。
当時の新聞には『「新長崎音頭」「新長崎小唄」を発表』と書かれているのに、レコードのレーベルには「新」の文字は付きませんでした。
「新長崎音頭」「新長崎小唄」は昭和24年にも作られており、レコード制作の過程で変更されたようです。
いずれにしても、長崎言葉も取り入れて長崎観光のために作られた歌でしたが、観光浮揚に生かされないままに終わったようです。

「長崎音頭」のレコード・レーベル


4.「羅紗綿(らしゃめん)夜曲」
(昭和52年=1977、佐藤 マサ・作詞、作曲、香港フラワーズ・歌)


ラシャメンは、明治の開国以後、外国人男性の日本人妻の呼び名で、その代表的人物が「唐人お吉」でした。
この歌は鎖国時代、長崎の出島と唐人屋敷に出入りしていた遊女を曼珠沙華(彼岸花)にたとえて、遊女の悲しい恋を歌っています。
「香港フラワーズ」は、自分たちの音楽を「西洋文明に冒され続けた東洋人の反撃のノロシ」として位置づけ、「チョップ・スティック・サウンド」(お箸の音楽)と名付けて、“最も東洋的な音楽”としてアピールしました。
しかし、ヒットとまではいかず、彼らの存在も知られないままに終わったようですが、長崎ソングとしては異色版です。


「羅紗綿夜曲」のレコード表紙


5.「猫ヒゲ Dance」
(平成3年=1991、長谷川集平・作詞、下村 誠・作曲、こじこじ音楽団・歌)




「猫ヒゲDance」のCD表紙

東京の魅力が薄れた…と東京から長崎に移住してきた絵本作家、長谷川集平(はせがわ・しゅうへい)さん夫妻らのグループ「こじこじ音楽団」が、坂の街・長崎などを歌い、CDで発表しました。
長谷川さん夫妻は学生時代から音楽活動を続け、集平さんがギターとボーカル、夫人のくみこさんがチェロとコーラスを担当。東京でバンド活動をしていましたが、平成3年6月、夫人の出身地、長崎へ転宅しました。
転宅してまもなく、集平さんがこの「猫ヒゲDance」を作詞、東京の友人、下村誠さんが作曲しました。
歌詞に地名は出ませんが、長崎の坂の途中に座って、たそがれの街を眺めている情景。曲調は70年代のフォーク・サウンドを連想させるもので、夫人のチェロが印象的です。


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