● 龍馬とお龍が目にした長崎

長崎龍馬の道--1 松森神社 2諏訪神社 10興福寺 11寺町通り 17 崇福寺 24 高島秋帆旧宅 30 出島・新地中華街 32 唐人屋敷跡・小島養生所跡





龍馬が長崎に滞在したのは、合計して約三ヶ月余り(104日)なのだそうです。ただしこれは記録に残るものだけで、実際はもっと多かったに違いありません。この記録に残る一度目の来崎は、勝海舟のお伴で訪れた元治元年(1864)2月23日〜4月4日までの41日間vol.7龍馬も通った難所、日見峠と矢上宿、二度目はいろは丸事件談判の際、慶応3年(1866)5月10日〜6月9日までの29日間vol.20龍馬と船3「海援隊の初航海、いろは丸の衝突事故」、そして、三度目はイカルス号事件の解決に奔走した同年8月15日〜9月18日までの35日間ですvol.23龍馬を悩ませたイカルス号事件の真犯人は誰?やるべきことに追われつつも、龍馬も長崎の町が持つ独特の情緒を味わったのではないでしょうか? 三度目の滞在時は「長崎くんち」の期間に当てはまります。イカルス号事件の大詰めの時期であり、まさか諏訪神社を訪れ祭りを見物する状況ではなかったにしろ、各踊町による庭先廻りや、しゃぎりの音を耳にしていた可能性はあるかもしれません。また、花街丸山へと度々足を運んでいた龍馬のこと、寺院が建ち並ぶ寺町通りの石畳をブーツで踏み鳴らし、酒宴の場へ向かったことも多かったことでしょう。その際目にしたものは、上野彦馬が自作の写真機で初めて撮影したという興福寺の山門や、珍しい竜宮門の崇福寺などの唐寺文化に彩られた新鮮な風景。山頭(丸山の上部)に設けられていたのは、医学伝習所と病院が一体となった日本初の西洋式近代病院「小島養生所」。好奇心旺盛な龍馬の性格上、足をのばしてみた可能性もありそうです。また、丸山周辺でいえば、高島流砲術の創始者である町年寄・高島秋帆の本宅が全焼し一時身を寄せていた雨声楼(うせいろう)と呼ばれる別邸「高島秋帆旧宅(国指定史跡)」の石段を仰ぎ見たかもしれません。龍馬は江戸留学中に佐久間象山に入門し西洋砲術を学んでいたともいわれ、兄 権平も高島流西洋砲術を学び奥義を得ていました。「長崎港」へ向かう際は、鎖国時代、世界へ開いた唯一の窓であった扇形の出島跡を目にし、外国人居留地へは新地−梅香崎間を結ぶ梅香崎橋がない時代なので、舟大工町(現船大工町)、本籠町(現籠町)を経由して御崎道(みさきみち)から入ったと考えられます。きっと唐人屋敷の名残も目の当たりにしたことでしょう。最後に---。お龍の回想によれば、小曽根家の人々vol.8龍馬がお世話になった小曽根家の人々と花見に行ったことがあるといいます。お龍の長崎滞在は、慶応2年(1865)6月〜翌3年の2月頃まで。梅の名所であった松森神社でしょうか? それとも1月上旬に開花し、旧暦の元日頃に見頃を迎える「元日桜」を愛でたのでしょうか? 諏訪神社や、そのまた高台に位置する西山神社は元日桜の名所。当時、咲き始めには長崎奉行にも献上されていたこの「長崎の春便り」が、晩年まで長崎の思い出と共にお龍の目に焼きついていたのかもしれません。




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