● 龍馬と船3 「海援隊の初航海、いろは丸の衝突事故」

長崎龍馬の道--14 聖福寺


自然林に覆われた和のたたずまいが印象的な黄檗宗寺院、聖福寺。この地は、「亀山社中」改め、「海援隊」となった、彼らの初仕事で起きた「いろは丸事件」ゆかりの地です。ことの発端は、慶応3年(1867)4月、龍馬率いる海援隊の「いろは丸」初航海の際、紀州藩の大型船「明光丸」と衝突。日本初となった蒸気船同士のこの衝突事故により、「いろは丸」は瀬戸内海に沈没してしまいました。龍馬は、事件直後から徳川御三家の紀州藩を相手に決死の談判に臨み、賠償問題について強気の決着を迫りましたが、交渉は決裂。紀州藩側は長崎での武器購入の使命を急いでいたために、舞台は長崎へと持ち越されました。そこで、紀州藩を相手に、龍馬が仕掛けた新戦法は、なんと!コマーシャル・ソング。「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る−−♪」事のいきさつを素早く理解させるこんな里謡(りよう)を花街丸山で流行らせ、世論を味方につける巧みな攻勢を仕掛けたのです。これはまさに現代のCMプランナー同様のアイデア戦法ですね。ところで龍馬は、長崎で豪商 小曽根乾堂vol.8龍馬がお世話になった小曽根家の人々から中国の楽器、月琴を習ったといいますが、司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』でも、高知では姉と共に一弦琴を習ったり、名曲『漁火』を演奏したりするシーンが出てきます。また長崎でも、刺客に狙われる身でありながら花街へと繰り出し、愛妓 お元が唄う『ぶらぶら節』を楽しむシーンなどが出てきます。龍馬は相当な音楽好きだったようですね。さてさて、この「いろは丸事件」の決着はいかに? 土佐藩参政・後藤象二郎と紀州藩勘定奉行・茂田一次郎によるトップ会談が行われたのが、当時、紀州藩の宿舎とされる聖福福。そして結果は、土佐藩の全面勝利。紀州藩が賠償金約8万3500両(のちに7万両に減額)を支払うことで決着しました。龍馬はこの会談の場にはいなかったといわれていますが、知恵と余裕を感じる龍馬のCM戦法が功を奏し、土佐藩を勝利へと導いたのは間違いないでしょうねvol.4龍馬も頼りにした貿易商人 ウィリアム・オルト




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