● 龍馬がお世話になった小曽根家の人々

長崎龍馬の道--18 小曽根邸跡

龍馬が、勝海舟に伴い初めて長崎を訪れた元治元年(1864)、海舟は、各国の領事や艦長と交渉し調停を成功させるなどの公務を果たしながら、長崎屈指の豪商 小曽根家を訪ね、龍馬を紹介したといわれています。小曽根家といえば六左衛門にはじまり、乾堂(けんどう)が継ぎ現在も跡が継がれる名家。江戸から明治にかけ、長崎を代表する豪商でした。元々は平戸の貿易商・平戸道喜が祖で、彼は長崎に移り出島を構築した25人の出島町人の一人で、工事の指揮監督を司った采配人でもあります。六左衛門の長男 乾堂(けんどう)は、聡明で書画に長じ、篆刻(てんこく)に巧みで、特に隷書(れいしょ)が天下一品と称されていた人物。海舟の印も、この篆刻家 小曽根乾堂の物でした。龍馬と小曽根家のこの出会いから、およそ一年後に龍馬は長崎の地に日本初の商社「亀山社中」を設立しました。長崎での社中の設立は、亀山焼の跡地の斡旋にはじまるように、薩摩藩の援助とともに、この小曽根家のバックアップあってこその実現だったといわれています。長崎県庁前国道34号線の一本裏の道筋、現在の長崎地方法務局の場所に小曽根家の屋敷はありました。ここは、土佐藩傘下となり「海援隊」に生まれ変わった後に、「海援隊本部」が置かれた場所でもあります。龍馬の妻 お龍は、一時期この小曽根家の人々と過ごし、四男 英四郎からはピストルの手ほどきを、乾堂やその娘きくからは月琴を教わったといいます。この本部に住んでいたのか、はたまた乾堂家族が住む小曽根町の別邸屋敷に暮らしたかはわかりませんが、龍馬にとって小曽根家の人々は、公私ともに信頼のおける人々であったことに違いないでしょう。






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