● 龍馬も通った難所、日見峠と矢上宿

長崎龍馬の道--1 長崎街道

二十三日 長崎着、日見峠甚だ難所、
直ちに奉行之御役宅へ行き面会、
洋船未着之由を聞く、福済寺旅宿となる。
  (『海舟日記』より)
 
龍馬が初めて長崎の地を踏んだのは、元治元年(1864)2月23日。龍馬30歳の時です。同年2月5日、英仏米蘭4カ国連合艦隊の長州攻撃を阻止する外国勢との調停役として、幕府より長崎出張を命じられた軍艦奉行並 勝海舟は、いざ長崎へと旅立ちます。龍馬ら門弟14名を引き連れての出張でしたが、彼らと合流したのは大坂の地。他にも後に海援隊士となる菅野覚兵衛や近藤長次郎、安岡金馬も同行していたようです。2月14日、神戸から翔鶴丸で出帆。長さ約60m、幅約7m、ニューヨークで造船された350トンの木造外輪船に乗った一行は、早くも翌15日に瀬戸内海を渡り豊後佐賀関(大分、関サバ関アジで有名な港)に到着しています。ここからは陸路で九州横断。 16日 豊後鶴崎、17日 野津原、18日 久住、19日 内の牧、20日 大津宿〜熊本城下、21日 高橋宿〜(渡船)島原 22日会津(愛津/愛野町)。
そして23日、一行は早々に宿を立ち長崎へと向かいました。会津からの道程は、おそらくは橘湾沿いの道。そして矢上宿で休憩をとり、きらめく橘湾を眼下に見ながら、海舟が書き記したように目前に立ちはだかる険しい日見峠を越え、長崎の町へ入ったことでしょう。この道こそ、江戸時代、多くの人々が行き交い、南蛮渡来の文化の数々が通った脇街道、長崎街道です。41日間にもわたる長崎滞在を経た一行は、4月4日に長崎を出立。再び、この長崎街道を通り、矢上宿で昼食をとりました。龍馬が再び長崎入りするときは海路ですから、日見峠の難所も、矢上の風情もこれが見納めだったかもしれませんが、長崎街道は一本道。間違いなく龍馬が歩いた道だといえますね。






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