● 龍馬を悩ませたイカルス号事件の真相犯人は誰?

長崎龍馬の道--26 イカルス号事件の現場(寄合町)





龍馬が海援隊を率いて長崎を拠点に活動していた頃、「お国の建て直し」という大仕事とは別に、長崎を舞台とした二つの事件が龍馬を悩ませました。ひとつはvol.20龍馬と船3「海援隊の初航海、いろは丸の衝突事故」で紹介した〈いろは丸事件〉。そしてもうひとつが、いろは丸事件解決直後、慶応3年(1867)7月6日に起こったイギリス人惨殺事件、俗にいう〈イカルス号事件(慶応長崎事件)〉です。この事件は、英国船イカルス号の水夫二人が、花街丸山で泥酔し、道に寝転んでいたところを何者かに惨殺されたというもの。「犯人は白木綿、筒袖姿の男。現地近くで海援隊士が飲んでいた。翌日、海援隊の船が長崎を出港した。」などのことから海援隊士に嫌疑がかけられました。ちなみに、この事件の際、上野彦馬は奉行高橋美作守の呼び出しに応じ、被害者の水夫二人の死体を撮影。国際裁判での証拠写真を撮影したのは日本人として彦馬がはじめてでした。しかし、この出来事はダメージが強く、上野撮影局は一時的に客が途絶えたといいますvol.6記念撮影は龍馬になりきって!? さて、時は薩土盟約が締結し、大政奉還へ向け一気に動き出す矢先。龍馬はこの事件の一報を京都で受けました。英国公使ハリー・パークスは、この事件を重要視し長崎奉行所へ海援隊士の捕縛を要求。また、英国人貿易商 オルトvol.4龍馬も頼りにした貿易商人ウィリアム・オルトを通じて土佐商会主任の岩崎彌太郎に談判に応じるよう要請し、二人は英国領事館で対峙しますが彌太郎は海援隊の無罪を断固主張。このまま長崎奉行に任せていてもらちが明かないと判断したパークスは、大坂へ出向き老中・板倉勝静に交渉。土佐藩大監察の佐々木三四郎らも巻き込み土佐で交渉を行います。しかし、結局結論は出ず、事件の再検証を行うべく長崎へ。龍馬も最後となる長崎入りを果たします。その後、関係者一同、龍馬も才谷梅太郎の名で、長崎奉行所、運上所(当時の税関)において度重なる取り調べを受けます。しかし、約2ヶ月に及ぶ調べの結果、海援隊による犯行は実証されず、長崎奉行は「お構いなし」の判決をくだしました。ところで、水夫二人を殺害した真犯人は誰だったのでしょう? それが判明したのは、約1年後の明治に入ってから。犯人は、事件直後に自害した筑前黒田(福岡)藩士・金子才吉によるものでした。文政9年(1826)生まれ、当時42歳だった金子は、長崎海軍伝習所に学び、蘭学にも通じた人物でした。鎖国時代から明治初年まで、長崎港警備の命を受けた筑前黒田藩は、現在の水の浦に、屯営所を置いていました。事件当夜、福岡藩士ら数名が寄合町の路上にさしかかった時、金子は突然刀を抜き、路上に寝ころんだ水夫二人を斬りつけたといいます。その後一人山中を放浪した後、藩邸に戻った金子を閉じ込めましたが、二日後、狂乱状態で切腹。丸山花街に同行した藩士らを藩船大鵬丸(グラバーから購入。旧名コロンビア。)に乗せ、金子の遺体は大鵬丸に曳かせた和船にて福岡に回漕したといいます。




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