長崎発! 辞書のススメ

南蛮貿易をきっかけとして、東西交流の舞台となった長崎。特に、17〜19世紀、唯一海外に開かれた窓となった鎖国時代の長崎の役割は大きく、一躍国際貿易都市に発展。海外の文化を吸収し国内に発信する発信基地の役割を担った。そんな中で多くの「辞書」が誕生している。そしてその制作に関わったのが、主にオランダ(オランダ商館)と日本の橋渡しを担う阿蘭陀通詞の面々だった。
※2012.1月 ナガジン!特集「唐通事と阿蘭陀通詞」参照
 

18世紀末から盛んになった
各国語の訳語辞典

辞書成立の大きなきっかけは、享保5年(1720)、徳川吉宗によって許可された出島での学術書輸入だった。それによって、近代西洋文明の導入と、長崎通詞達の各国語の習得が試みられたのだ。そして、18世紀末〜19世紀初頭にかけて、※4魯(露)日、英日、仏日、蘭日辞典が編纂された。

※4 江戸から明治時代にかけて使用されていたロシアの漢字表記。

ロシア
『和魯対訳初歩』『魯和対訳字書』
文化元年(1804)〜文化2年(1805)

文化元年(1804)、通商を求めて長崎に来航したロシア使節レザノフは、翌年の出帆まで長崎に滞在するうち、『和魯対訳初歩』『魯和対訳字書』を編集している。このレザノフの来航、フェートン号両事件を機に、英語とロシア語の習得が、阿蘭陀通詞達に命じられることとなった。

イギリス
『諳厄利亜語林大成』
文化11年(1814)

文化5年(1808)の※5フェートン号事件をきっかけに幕命を受け、通詞達がオランダ商館長ヤン・コック・ブロンホフの指導の下、英語に取り組んだ成果として誕生したのが『諳厄利亜国語和解(あんげりあこくごわげ)』(諳厄利亜興学小筌)。これを元に、文化11年(1814)、阿蘭陀通詞 本木庄左衛門正栄、楢林高美、吉雄権之助ら編集による『諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)』が完成。約6,000語を収載する、これが最初のまとまった英和辞書であった。

諳厄利亜語林大成 諳厄利亜語林大成
本木正栄自筆の草稿本『諳厄利亜語林大成』 (長崎歴史文化博物館所蔵)

※5 イギリスの軍艦がオランダ国旗を掲げて入港し、職員を人質に交易を迫った事件。

フランス
『払郎察辞範』
文化末年(1814−17)頃

阿蘭陀通詞 本木庄左衛門正栄が、フランス語の習得を志し、楢林、吉雄両氏と共に、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフの指導を受けて編集したピーテル・マリーンの『仏蘭辞書』を編集した『払郎察辞範(ふらんすじはん)』が、最初のフランス語の辞書。その成立はさだかではないが、文化末年(1814−17)頃と見られている。
払郎察辞範
『払郎察辞範』
(長崎歴史文化博物館所蔵)
払郎察辞範 払郎察辞範

オランダ
『ドゥーフ・ハルマ』
天保4年(1833)

フランソワ・ハルマが編修した『蘭仏辞典』をもとに、日本初の蘭和辞典『波留麻和解(はるまわげ)』が寛政8年(1796)に完成。いわゆる「江戸ハルマ」で、これに対し、同じくフランソワ・ハルマの『蘭仏辞典』に出島オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが吉雄権之助ら阿蘭陀通詞11名の協力を得て、訳語をつけた『ドゥーフ・ハルマ』を長崎で編纂。「長崎ハルマ」と呼ばれた。しかし、その作業期間は約22年。完成したのは、ドゥーフ帰国後の天保4年(1833)だった。
※2010.2月 ナガジン!特集「長崎の印刷物」参照

ドゥーフ・ハルマ

ドゥーフ・ハルマ

『ドゥーフ・ハルマ』
(長崎歴史文化博物館所蔵)
 

《長崎発の辞書2》
英語教育の転換期を切り開いた男の功績、
初の英和辞書『英和対訳袖珍辞書』を編集したのは、
長崎の阿蘭陀通詞だった。

"I can speak Dutch.(私はオランダ語を話すことができます)"――ホークスの「ペリー艦隊日本遠征記」にも記述されているこのフレーズは、嘉永6年(1853)、ペリー来航時に日本側の主席通詞を勤めた阿蘭陀通詞・堀達之助(1823〜1894)によるもの。この達之助の第一声は、鎖国の扉を押し開いた象徴的なもので、彼は日本人が公式外交の場で外国人と英語を話した最初の日本人となった。

フェートン号事件を機に、初めて公に英語を学びはじめた長崎の阿蘭陀通詞達。その成果は6年後に完成する日本初の英和辞典「諳厄利亜語林大成」として結実した。この辞典の編纂者のひとりである楢林栄左衛門が、実は堀達之助の義理の祖父にあたる。達之助は大通詞・中山作三郎の五男として誕生したが、後に同じく阿蘭陀通詞の家系である堀家の養子となる。養父は、※6シーボルト事件に連座し入牢させられた堀儀左衛門。達之助が5歳の時だった。その後、通詞職の階段をのぼっていった達之助は、「最初の英語教師」ラナルド・マクドナルドに英語を学んだ。そして、ペリーと対面の日が訪れたのだ――。

後に達之助の編集によって、文久2年(1862)、幕府の洋書調所から日本初の英和辞典『英和対訳袖珍辞書(えいわたいやくしゅうちんじしょ)』が1年9ヶ月という異例の早さで完成、発行された。訳語は派生語も含めて約6万語。1,000ページ近くもあり、その60〜70%は、『和蘭字彙』によるもの。つまり、長崎の阿蘭陀通詞がオランダ語の知識を駆使し、英語学習と辞書の編纂を続けることで達した集大成というべき辞書であった。

※6 文政11年(1828)9月、オランダ商館医のシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方兼書物奉行の高橋景保ほか10数名が処分。シーボルト自身も出島に1年間軟禁の上、文政12年(1829)、国外追放の上、再渡航禁止 の処分になったというもの。
英和対訳袖珍辞書
『改正増補英和対訳袖珍辞書』(1867)
(長崎大学附属図書館経済学部分館
武藤文庫所蔵)
 

辞書成立の陰にこの人あり。

長崎の阿蘭陀通詞達に英語を教えたのが、インディアンの血を引くラナルド・マクドナルド(1824-1894)というアメリカ人。日本に憧れた彼は、江戸末期、北海道沖で捕鯨船を降り、ボートで利尻島に上陸。密入国者として捕らえられ長崎に護送されてきた人物だ。彼は長崎で崇福寺の末庵である大悲庵に幽閉されたのだが、当時の長崎奉行から英会話の指導者に任命され、14名の若い通詞達に英語を指導した。この14名の中には堀達之助の名前はないが、彼もマクドナルドに師事したものといわれている。牢格子を隔てたマクドナルドと向かい合い、音読するなどの方法で英会話の指導を受けたという。
ラナルド・マクドナルド
上西山町にあるマクドナルド顕彰碑
大悲庵跡の通り
大悲庵は顕彰碑が建つ道向かいにあった

※2007.3月 ナガジン!特集「モニュメントで巡る長崎 前編(鎖国時代〜明治の近代化編)」参照
 

最後に――。
今回注目した「辞書」以外にも、まだまだ長崎ゆかりのものがある。ラナルド・マクドナルドが10ヶ月の日本滞在中に作った単語集をアルファベット順に整理した『日英語彙』には、「セ」が「シェ」、「ゼ」が「ジェ」になるなど、長崎の方言やイントネーションまで記されているし、安政6年(1859)に長崎で出版されたビジネス用会話集『長崎版会話書』というものもある。「辞書」の世界でも長崎は通過点。長崎の豊かな歴史の足跡が辿れるようだ。

長崎版会話書
『長崎版会話書』
(長崎県立図書館所蔵)
長崎版会話書 長崎版会話書

参考文献
『長崎洋学史 上巻』古賀十二郎著(長崎文献社)、『辞書遊歩--長崎で辞書を読む--』園田尚弘、若木太一編(九州大学出版会)、『邦訳 日葡辞書』土井忠生、森田武、長南 実編訳(岩波書店)、『長崎県の教育史』外山幹夫著(思文閣出版)、『マクドナルド「日本回想記」 インディアンの見た幕末の日本』ウィリアム・ルイス、村上直次郎編 富田虎男訳訂(刀水書房)


〈2/2頁〉
【前の頁へ】