異国情緒長崎を造った兄弟
織部が、誰も引き受け手のなかった外国人居留地造成の偉業を達成したことで、天草人の名声は高まるばかり。長崎奉行の命を受けた代官は、厚生施設の建築工事に、天草の大工を直々に指名するほどになっていた。この町において「国民社 小山商会」は、土木建築業界の実力者としての地位を確立したのだった――。
建造中の大浦天主堂
右上は1863年建築のグラバー邸。大浦天主堂の玄関前には足場のようなものが見える。F.ベアト撮影。
<長崎大学附属図書館所蔵>
 

豪放磊落な天才棟梁
小山秀之進
「初めての教会建築に挑む!」

外国人から「コーヤマ」あるいは、「ヒーデノシーン」と呼ばれていた「国民社 小山商会」の小山秀之進。ひと言で言えば、豪放磊落(ごうほうらいらく)、まさに意気盛んな若手棟梁であった。彼が請負った仕事は、長崎会所や外国人居留地関連など公的なものばかりではなく、居留する外国人達の私的な建物にまで及んだ。長崎随一の観光名所として知られるグラバー園内に現存する洋風住宅で、今は国指定重要文化財となっている旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅といった幕末洋風建築の建設も秀之進が携わったといわれている。
※2002.9月ナガジン!特集「グラバーが住んだ丘〜グラバー園・満足観光ナビ」参照

旧グラバー住宅

旧リンガー住宅

旧オルト住宅

旧オルト住宅の石畳
旧オルト住宅に天草石を用いた古い石畳を発見!

そして――教会堂として唯一国宝に指定されている大浦天主堂。外国人居留地に建てられたこのカトリック教会において、今年も3月17日、粛々と「信徒発見」のミサが執り行なわれた。そして来年は、あの奇跡と呼ばれる信徒発見の出来事から150周年を迎える。日本人には未だ禁教令が解かれていない中、その教会堂建設の采配を振ったのは、前述の北野織部の実弟、当時数え年36歳の日本人棟梁・小山秀之進だった。

開港後まもない長崎にフランス人宣教師フューレが派遣されたのは、西坂の丘で殉教した26聖人へ捧げる教会堂を建立する、という断固とした目的があった。
※2003.3月ナガジン!特集「国宝・大浦天主堂とキリシタンの歴史」参照
※2002.7月ナガジン!ミュージアム探検隊「日本二十六聖人記念館」参照

元治元年(1864)、秀之進に、その教会堂建設の依頼が舞い込んでくる。当時「国民社 小山商会」は、この町の土木業界きっての実力者。しかも秀之進は、すでに外国人住宅の施工をいくつも手がけていた。神父の指導のもとにそれまでの洋風建築の建設の経験と従来の伝統技術とを結びつけての教会堂建設がはじまった。

この時、秀之進は、やはり郷里天草の資材を取り寄せている。御領村大島で造船業を営む船大工棟梁に船釘を、また、郷里にいる兄芳三郎に頼み材木までも国民社の持ち船で運んでいる。

教会堂の建設は、建設資金の不足や秀之進が他の工事などで多忙であることなどから難航し、なかなか順調には進まなかったようであった。

当時の建設の様子を知ることができる資料として、体調を壊し帰国したフューレ神父に代わり建築監督にあたっていたプチジャン神父が、横浜にいるジラール教区長に宛てた元治元年10月13日付の報告書がある。

「長崎のあなたのカテドラルの建築は、都合よく運んでいます。しかし、工事の歩みは遅々たるもので、吾が主のお誕生日には竣工になりますか、私は大いに危うんでいます。三つの塔と大広間および脇間の屋根と破風の半ばは完成しました。もし小山がその気になったら、すくなくとも八日間で、外部は全部竣工するのですけれども、彼は、仕事を全然、中止しているのではないかと見せかけるためになるだけの職人しか、遣わしておりません。いくら催促しても、御存知のように彼が旦那様風にうちふるまうのでいたずらに無駄骨を折り、時間をつぶすばかりです。彼はいつも、人を馬鹿にした風をしています。内部は何もしていないのですが、しかし自分の仕事場には戸も窓も柱の嵌木細工も、何から何まで用意が出来ていると断言します。」

一方、秀之進の言い分は次のようなものだった。

自分が知るしきたりとまったく異なる外国人からの直接の請負であり、教会堂建築は、一般居留民の仕事より手が込んでいるのに、金儲けにはならない。しかも、ほかにも居留地現場の仕事を数多く抱え込んでいるので、大工や左官を集めるのは一苦労なのだ……。

しかし秀之進の心中は、織部と同様に天草人としての恥じない「最高傑作を築き上げてみせる!」という情熱が満ちあふれていたことだろう。

プチジャン神父、秀之進、双方のいい分から行き違う面も多々あったが、遅々として進まない期間を経て、遂に元治元年12月1日(1864年12月29日)、大浦天主堂(正式名、日本二十六聖殉教者天主堂)は、完成した。秀之進は、神父の設計図を元にしながらも壁の下地や小屋組みなど随所に日本的手法を用いた。大浦天主堂は、純粋な西洋建築ではなく、天草の資本と技術が築き上げた洋風建築といえるだろう。

パリ外国宣教会が設置したこの教会堂を、当時の長崎の人々は「フランス寺」と呼んだ。周囲の石畳や石段も秀之進が手掛けたものだった。

明治期の大浦天主堂
明治手彩色写真帖に収められた大浦天主堂。秀之進が手掛けた天草石による石畳、石段が確認できる。
<長崎大学附属図書館所蔵>

ところで、大浦天主堂周辺に限らず、外国人居留地であった一帯にはオランダ坂に代表されるような石畳が施されている。これらは、移住してきた外国人達の要求によるもので、長崎人請負による大浦街路や、オランダ坂の石畳舗装工事にも、天草の石工が動員され、天草砥石の平材が用いられたと伝わる。ちなみに、出島の頃の名残から、開国し、諸外国の人々が町を往来しても、長崎の人々は欧米人全般を“オランダさん”と呼んでいた。ゆえに、居留地に敷き詰められた石畳はすべて、外国人が通る坂=オランダ坂なのである。
※2004.9月ナガジン!特集「長崎『坂』ストーリー」参照

長崎の異国情緒風情を醸し出している要素に、この石畳も一役買っている。その代表格「オランダ坂」は、多くの歌にも謡われ、知られるところだろう。
※2006.4月ナガジン!歌で巡るながさき「〜歌さるき・8〜東山手居留地跡コース」参照

つまり、織部と秀之進の故郷、天草から運ばれた「天草石」は、外国人居留地の土木用として石垣、道路の舗装用として板石が敷かれたほか、建築材としての基礎石、外壁、石柱、門柱、石塀など、多目的に使用された。
また、貿易業が軌道に乗り、多くの輸出品を扱いはじめると外国人貿易商達の間で居留地内に石蔵で船荷収納倉庫を建てるようになった。当然、秀之進は、天草から石の角材を積み送らせ、彼らの石蔵建築をいくつも請負った。

今も旧外国人居留地を歩けば、秀之進が手掛けた仕事ぶりを見ることができる。天草石でその基壇(きだん)を設け、御領村大島の船大工を監督して、完成させた木造洋風建築グラバー邸。優秀な天草石工に命じ、石造外壁を取り巻くベランダの支柱にまで豊富に天草石を起用した石造、寄せ棟、浅瓦葺き洋風建築のリンガー邸。また、オルト邸の建設設計原図は、秀之進の生家に残されていた。石の円柱に支えられた三方のベランダ中央の玄関口、扉のパネルには、大浦天主堂に用いたのと同じ唐草模様の浮き彫りが施されている。
そして、最後に居留地となったオランダ商館跡である出島には秀之進が手掛けたハルトマン・ベシールの石蔵が昭和31年(1956)に復元され、現在に至っている。 出島の石蔵
復元された出島の石蔵
 

豪放磊落な天才棟梁
小山秀之進
「栄光と挫折、没落への道」

秀之進が手掛けた木造洋風建築に住む若き貿易商グラバーは、明治に入る頃には、すでに押しも押されもせぬ大貿易商人となっていた。一方、秀之進は外国人居留地の土木、建築工事が一段落。新たな大仕事を模索していた。グラバーと、彼より10歳上の秀之進は、その頃には親密な関係となり、秀之進がグラバーから勧められたのが、「高島炭鉱」の共同管理経営者であった。

現在、一枚の写真が高島石炭資料館に遺されている。日本における商業カメラマンの開祖、上野彦馬撮影によるこの写真に写っているのは、日本最初の蒸気機関による立坑、「北渓井坑(ほっけいせいこう)」操業時の風景。この北渓井坑の設計施工も秀之進が請負ったのだった。また、高島に設けられたグラバーの別邸も、秀之進が手掛けたものだ。

しかし、高島炭鉱開発への関与を境に、秀之進の輝かしい人生に暗雲が立ち込める。「グラバー商会」の倒産、高島炭鉱責任者・松林公留の引退、端島(軍艦島/当時は「初島」)の石炭発掘に関する投資と天災、日本坑法の制約……。いつしか天草郡御領村大島の小高い丘に建つ小山邸は、借金のカタとなっていた。そして、明治9年(1876)、秀之進は第8代当主の座にすわる。48歳の時だった。その後、天草へと帰った秀之進は、三角港築港や、熊本三角間鉄道敷設などを手掛け、71歳で他界した。明治17年(1884)から3年かけて築港された三角西港や、熊本三角間鉄道が今も往時の風情を残し活躍しているのは、うれしい限りである。

現在の三角西港
野蒜(のびる)築港(宮城県)、三国(みくに)港(福井県)とともに明治三大築港と呼ばれる三角西港。

天草石
随所に外国人居留地と同様に天草石が見られる。

明治3年(1870)、長崎県天草出張所は、国名官名、または武士の名前にまぎらわしい「進」や「丞」などを、一般人が通称にもちいるのが禁じるのお触(ふれ)を公布。そのため、秀之進は“秀(ひいで)”と改名している。彼の墓は、意外にもただ“小山秀君”と刻まれた一塊の自然石なのだという。


最後に――。
幕末から明治にかけて、天草の資本、技術、資材、人材を長崎へと送り込み、長崎らしさの代名詞である「異国情緒」を造り上げた北野織部と小山秀之進。今まであまり取り上げられてこなかった彼ら兄弟が成し遂げた偉業は、長崎の歴史に深く刻まれるべきものだ。

参考文献
『天草海外発展史 上巻』北野典夫著(葦書房)、『長崎石物語』布袋厚著(長崎文献社)、『長崎異人街誌』浜崎国男著(葦書房)


〈2/2頁〉
【前の頁へ】