異国情緒長崎を造った兄弟



長崎を語る上で大切なキーワードといえば「異国情緒」。この一言には開港にはじまり、海外との交流を重ね、現代の観光都市と成るまでのこの町の歴史が集約されている。
今回のナガジン!は目に見える形の「異国情緒」に着目!


ズバリ!今回のテーマは
「その舞台裏には天草人兄弟の姿があった!」なのだ




旧長崎外国人居留地
1865年、F.ベアト撮影。造成工事を終え、洋館が建ち並びはじめた居留地風景。
<長崎大学附属図書館所蔵>


長崎の町を構成する景観の中には、異国情緒をそそるものが数多く存在する。丘の上の教会堂、和洋折衷の洋風建築、雨に濡れた石畳……これら外国人居留地の風景も「異国情緒」長崎の代表的景観のひとつだ。しかし、これらを造り出したのは長崎人ではない。天草出身の北野織部(きたのおりべ)と小山秀之進(こやまひでのしん)という兄弟なのだった。
洋風建築
長崎の洋風建築の多くは、意匠などに和風や中国風のモチーフが。

石畳
異国情緒漂う雨に濡れた石畳(どんどん坂)。

幕末、開国に伴って長崎に多くの外国船が入港するようになるという噂が各地へと届くと、多くの天草人出稼者が長崎へと出向いた。そして、200年以上前から代々天草の御領町大島に住む銀主(ぎんし)と呼ばれる実力者である小山家は、当時、長崎に進出し「国民社(くにたみしゃ)小山商会」を設置している。

小山家の3男として誕生した織部は、幼くして北野家へと養子に出され、長崎開港時は、天草郡赤崎村の庄屋職を務めていた。一方、秀之進は、小山家11人兄弟の末っ子。8男でありながら、勤勉さと才能を認められた秀之進は、晩年、この歴史ある家を継ぐこととなる。
 

天草人の心意気を形に!
北野織部
「居留地造成は、日本人の威信にかけて!」

安政5年(1858)、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの五ヶ国と修好通商条約が結ばれ、翌年、長崎港も自由貿易港として新たに開港された。開港にあたって各国より外国人の居留場が要望されていた。そこで外国人の活動や居住の場所を提供するために港に近い大浦海岸一帯を埋め立てて平地部分を増やし、そこを外国人居留地にあてる方針が、時の長崎奉行岡部駿河守(おかべするがのかみ)によってとられた。
※2013.1月ナガジン!特集「幕末の名奉行・岡部駿河守という男」参照

しかし、この「長崎外国人居留地建設計画」たるものは、大浦海岸一帯18,525坪という広大な土地を埋め立て、これを中心に周辺一帯、背後の山手を含めて34,652坪の宅地を造成。外国人の貿易活動の基地と住居を提供するという大規模なもの。幕府との擦り合わせ、埋め立て予定地に軒を連ねる「浦百姓」の移転や生活権問題、同じく予定地に唐船据え場(修船場所)を構える中国人達の抗議陳情等々……長崎奉行は東奔西走、苦悩の日々を重ねた。しかも、イギリスやアメリカの領事からは、日本人で居留地の建設が不可能なら自分達が上海に待機中の英米人を呼び寄せ、労働者を連れてきて施工するなどと責め立てられた。

開国直後の微妙な時期、なんとか日本人の手で成し遂げなければ、その後の関係に影響する恐れもあった。しかし、いざ請負人を募集すると、なかなか希望する者がでない。そこで名乗りを上げたのが、天草郡赤崎村の庄屋、当時50歳の北野織部だった。彼が正式に「大浦御築き方御用」を仰せつかったのは、安政6年(1859)9月15日のことであった。

長崎居留地建設は埋立てを伴う大規模造成工事であり、ブルドーザーも、ダンプカーもないこの時代、すべて人間の手作業で行わなければならず難事業であった。しかし、天草は、かねてより新地開拓、新田開発など、各地に干拓の歴史を持つ土地柄で、裕福な庄屋など村役人をふくむ銀主たちの資本に天草の住民の労働力が加わり、方々の干拓事業を推進していた実績があった。文化7年(1810)、織部の故郷である御領村大島と天草下島をつなげたのも、小山家による干拓事業だった。

また織部は、天草全島で増え続ける人口対策として、居留地造成の労働力を天草人に求めた。全島の村々で人夫募集をかけると、官民一体で、この織部の一大事業をバックアップ。当時、長崎の開港は天草である種のブームを呼んだという。
 

天草人の心意気を形に!
北野織部
「武器は天草ならではの資材と人材!」
居留地造成工事は人夫小屋建設からはじまった。敷地造成のため、大浦の入り江の干潟埋め立てに着手。それが安政6年(1859)9月25日のことだった。 大浦川下流域
大浦川を挟み洋館が建ち並ぶ1874年頃の大浦川下流風景。稲佐山を遠望。
<長崎大学附属図書館所蔵>

織部の総請負金額は、会所入用銀12,086両2歩1朱3厘1分。その3分の1が、9月29日、長崎会所から前金として手渡された。織部はその金を人夫小屋建設、埋め立て工事専用の沼船建造、人夫賃支払いなど、さしあたっての運用資金にあてたようだ。織部がはじめに雇い入れたのは、沼船の船頭300人、石工、石持、石割、石積み船頭とも30人、陸上土取り場の岡夫70人、都合400人。また、織部は、専用船の建造は小山家のある天草御領村大島が誇る船大工達に発注するつもりだった。大島は、かねてから木造船業のさかんな土地柄だったのだ。天草へ一時帰郡した織部は、船大工達を叱咤激励。そして、ほぼ予定通り、11月1日までに、「沼船」300隻を動員させた。

ここで、織部が手配し、居留地造成で活躍した船についても触れておきたい。

泥(潟土)を成らしながら寄せ集める「沼切り船」のほか、オランダ商館があった出島下や、長崎湾奥の稲佐付近からの潟土を運ぶ「沼積み船」など、用意した「沼船」のほか、はるばる天草から長崎港に入港したのは、「天草石」を積んだ「石船」。それらは主に合津村(松島町)、樋合(ひあい)島、大矢野島などから、海運業に従事する船頭達が運んだ。安政7年(1860)2月3日には、天草石船5隻が入港。次いで翌4日から18日にかけては20隻が入港している。荒波の遠海を渡っての航行はさぞ大変だったに違いない。

織部は、崩落要因の少ない川筋などには伊王島産や戸町産の長崎近郊の石材でも賄えるが、沖や波がかりの場所や、カーブなどの主要部分は、天草から運び、良質の石材を選択し、頑丈に築き上げる方針だった。結果、この石材を運ぶのに、最終的には天草人夫約1,000人を要したという。
当初「安政7年(1860)3月には完成させる」と、誓約していた織部だったが、早春の雨続きと、軟弱地盤のために相次いで起こる石垣の崩落などによる予想以上の難工事で、工期も半年以上遅れ、織部は長崎奉行所に再三に渡って完成期日の延期願書を提出した。そして10月、ついに完成。

天草石垣
大浦川の一部、石橋電停付近に現在も残る天草石で築かれた石垣。

大浦川
現在大浦川は、ほとんどが暗渠となっている。

織部は、埋め立て工事完成に引き続き、大浦南手、常盤崎の二ヶ所の波止場工事を行った。その工法はまさしく「天草石」を用いた天草方式による埋め立てで、人夫はもちろん天草人だった。

また、当時、天草瓦焼師と交わした契約書が発見されている。そこには、外国人居留地の造成工事を慌ただしく行っている最中に、すでに外国人から依頼された倉庫建築設を請負、その資材として石材や木材、さらには瓦まで天草より調達していることが記されているという。

長崎開港の父ともいえる北野織部――その後、長崎を巡る幕末の動乱と、華々しい近代化の影に隠れてしまった彼と、天草人夫集団の存在が、実は「異国情緒」長崎の基盤となっているのだった。
 

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