西道仙の足跡を辿る旅
痛快エピソードが物語る
道仙の思想と人物像2

その3.橋の名付け親にまつわるエピソード

道仙は、眼鏡橋をはじめ、長崎市中百余りの橋に名前をつけた名付け親。現代に生きる者にとって、それらはかつての町を思い起こさせる重要な足がかりである。明治14年(1881)、当時長崎区常置委員を務めていた道仙に常置委員会が一任。道仙は様々なことを熟慮のうえ命名した。名付け親といっても、道仙が独断で決めたのではなく、眼鏡橋でいえば、それまで「眼鏡橋」「酒屋町橋」などと呼ばれていたものを統一命名したような例も数多い。

現存する中島川石橋群19橋のうち、「一覧橋」「榎津橋」「古川橋」「桃渓橋」「阿弥陀橋」の6橋がこの統一命名。「大手橋」「玉帯橋」「高麗橋」「万橋」「魚市橋」「編笠橋」「袋橋」の7橋は道仙が町名や時代背景などにちなみ命名している。



かつて「河口橋」「黒川橋」とも呼ばれていたのを「思案橋」と統一したのも道仙。また、花街丸山、橋畔に見返り柳が立つ山の口の橋に「思切橋」と名付けたのも道仙だった。今は現存しなくとも、その橋名を耳にするだけで当時の情景が浮かび上がる。
※2011.1月 ナガジン!特集「異国の薫り〜明治期の長崎」参照
※ナガジン!長崎のお宝「袋橋」参照
 

その4.長崎新聞および長崎自由新聞にまつわるエピソード

道仙は、親戚である活版印刷行者の本木昌造(もときしょうぞう)が明治6年(1873)1月に創設した週刊「長崎新聞」の創刊に、勤皇家で眼科医の池原日南、金融資本家の松田源五郎らと参画(現長崎新聞の前身ではない)。明治維新の頃、澤宣嘉卿に多くの献策をした道仙は、新聞では投書の形式で提言。紙面には小学校の早期創設を促すような時事問題や上海からの海外情報、事件報道、県庁が交付した賞状、読者投書や居留地の外国人商社の広告などが掲載された。しかし経営難のためか12月には廃刊。明治8年(1875)に復刊再興された際、道仙は編集長として参画。同業者の団結、道路の改良、公園の開設、汽船汽車の開通、国会の開設などを論じるようになった。その翌年、長崎新聞は一地方紙からブロック紙への飛躍を目指し「西海新聞」と改称。道仙はなお主筆としてペンを振るった。

そして明治10年(1877)、道仙は西南戦争勃発にあたり、九州初の日刊新聞「長崎自由新聞」を創刊。西南戦争のニュースを目玉に掲げ、西郷隆盛を応援。西郷が自刃し、西南戦争が終わると、その役割を終えたかのように「長崎自由新聞」は廃刊となった。

道仙は何故、西郷隆盛を支持していたのだろう。それは、曾祖父道俊が行動をともにしていた高山九彦郎を西郷隆盛が敬慕していたことに由来していると考えられているという。

明治12年(1889)、当時長崎で唯一の日刊新聞だった保守系の「鎮西日報」に対抗し「長崎新報」創刊。これが現在の「長崎新聞」の前身で、市会議員の道仙は株主となり常議員に名を連ねた。

※2010.2月 ナガジン!特集「長崎の印刷物」参照
※2008.3月 ナガジン!ミュージアム探検隊「十八銀行史料展示室」参照
 

その5.初代長崎区会議長および長崎水道の功労者

新聞言論人であった道仙は、明治11年(1878)初めての公選で長崎区戸長(今の町村長)に当選。しかし、自治制の基礎づくりという目的を果たしたと一日出勤して辞任。「一日戸長」と呼ばれた。その後、町会議員、長崎区連合町会議長、長崎区衛生幹事長、長崎区会議長などを歴任する。

明治22年(1889)衛生上の問題と老朽化した設備、また外国人居留地からの新しい施設の要望もあり、中島川上流本河内を水源とする水道施設を設置することとなった。すると、これまで井戸水などを利用していた市民から、水道料金や税金などを懸念して反対運動が起こり大きな社会問題へ発展。市制が布かれ、市会議員に当選したばかりの道仙は『長崎水道論』を著し、水道の必要性を説いた。

こんなエピソードがある。ある夜、反対派数百人が道仙の自宅を取り囲むという事件が起きた。声高に主張する人々の言葉をしずかに聞いていた道仙は、突然「水道がなぜ必要か理解できない者はこれを読め!」と『長崎水道論』数百冊を庭にまき散らしたというのだ。結局、この水道騒動は当時の知事や市長、松田源五郎、そして道仙らの尽力によって解決へと導かれ、今日まで彼らは長崎水道の功労者として顕彰されている。
 

その6.長崎医師会の創始者および初代長崎看護婦養成所長

明治の中頃、長崎ではコレラなどの伝染病が大流行。明治8年(1875)には市内で600名余りがコレラで死亡したという。前述のように、道仙が水道問題で奮闘したのも、衛生面を重要視した医師ゆえの使命感からくるものだったに違いない。漢方医だった道仙は、伝染病予防には西洋医学が必要と考え、漢方医師団と西洋医師団をまとめることを発案。明治18年(1885)、会長には長崎医学校兼長崎病院長の吉田健康が就任。道仙は副会長となり長崎医会(後の長崎医学会)を創立させ、様々な活動を行なった。

また、明治10年の西南戦争において佐野常民が起こした博愛社を源流とした「日本赤十字社」の正社員であった道仙は熱心な赤十字活動家だった。明治27年(1894)の日清戦争では赤十字社の救護活動の一環として看護婦養成を行ない、救護看護を普及。慈善活動にも熱心だった。そして、明治36年(1903)、長崎医学会の重鎮であった道仙は、68歳にして長崎看護婦養成所長となる。

実は、御用医師であった西家の始祖 寿仙院は代々貧民救済のために毎年施薬をし、悪疫流行に際しても率先して施薬していたという。道仙が慈善事業に力を注いだのも、先祖の姿勢を習ったものだったのかもしれない。


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