坂本龍馬と同年ながら、明治、大正と、変貌する長崎の町を颯爽と駆け抜けた勤王の志士、西道仙。町中を見渡せば、多才多芸の行動派だった彼の足跡が今もそこここにあふれている。近く没後100年を迎える西道仙とは何者だったのか? 彼が長崎の町に与えた影響、功績とは?


ズバリ!今回のテーマは
「長崎の基盤をつくった男に迫る!」なのだ



 
ナガジン!では、昨年から今年にかけて「長崎龍馬便り2010-11」を展開。36回にわたり長崎と龍馬の繋がりを紹介してきた。その最終話直前、Vol.35「それからの海援隊」では、海援隊が解散へと向かう慶応4年の出来事に触れている。奉行不在となった西役所(長崎奉行所)を海援隊士らが占拠した後、諸藩はすばやく奉行所に変わる行政機関「長崎会議所」を設立。ひと月後に派遣されてきた澤宣嘉(さわのぶよし)が長崎会議所改め長崎裁判所の総督に着任した。それは、龍馬の死後からちょうど3ヶ月後の慶応4年(1868)2月15日のことだった。今回注目する西道仙は、その澤の懐刀として活躍。龍馬亡き後、繁栄していく明治の長崎に生きた人物である。
 
天保7年(1836)1月1日生まれ。なんと年齢も天保6年(1836)11月15日生まれの龍馬と同学年だった道仙。西家はもともと長崎御用医師の家系だったが、道仙の曾祖父 道俊が勤皇の志士であったため、幕府に追われ肥後(熊本)天草郡へ潜伏、以来三世代にわたり天草の地で医業を行なっていた。そんな天草生まれの道仙。実はこの名は字で、本名は喜大(きだい)といった。長崎の親戚には道俊の実弟 本木良永の流れであるオランダ通詞本木家。道俊の母親は、ケンペルからオランダ医学を学び、解剖書を訳し『和蘭全躯内外分合図験号』を著した著名な学者 本木良意だった。道仙にも脈々と続く優秀なオランダ通詞の血が流れていたということだ。

ところで西道仙の肩書きは実に多様だ。医師、ジャーナリスト、政治家、教育家…挙げればまだまだキリがない。ひとまず彼の主な功績を羅列してみるとしよう。

1.万歳三唱の創始者
2.私学校「瓊林学館(けいりんがっかん)」創設者
3.市中百余りの橋の名付け親
4.長崎新聞創設に参画および長崎自由新聞創刊者
5.初代長崎区会議長および長崎水道の功労者
6.長崎医師会の創始者および初代長崎看護婦養成所長
7.長崎歴史学会の草創者および漢学者


これを見ると、その多岐に渡った活躍もさることながら、道仙はすべての分野において先覚者であったことがわかる。


西道仙の足跡を辿る旅

痛快エピソードが物語る
道仙の思想と人物像1

その1.万歳三唱の創始者にまつわるエピソード


今も祝宴やおめでたい席で自然に唱和する「万歳(ばんざい)」は、道仙が全国に普及させたもの。明治38年(1905)、長崎の新聞各紙が以下のように報じた。

「西道仙氏は明治五年自由会なるものをおこし、長崎長照寺において谷口藍田翁はじめ生徒十数人会合の席にて西氏、三呼万歳声の五文字を書して床の間に掲げ万歳を唱えたり」。

これは彼が創刊した「長崎自由新聞」の会合の一幕で、このことから明治5年(1872)、明治天皇の長崎行幸の際にはじめて唱えたといわれる「万歳」の前に、事前練習が行なわれていたことがわかる。 ※行幸…天皇が外出すること

実は新聞各紙が報じた前年の明治37年(1904)、長崎の町には、長崎港改修工事の埋め立ての完成により、23もの新町が誕生していた。そのうちの多くの町名は道仙が命名したという。八千代町、宝町、尾上町、旭町、大鳥町、元船町…。 この際、明治5年、明治天皇の長崎行幸を記念し、天皇の御座所があった島原町を萬歳町(当時は“まんざい”と発声、現在の万才町)と改称することを提案した道仙に注目が集まり、明治38年の新聞報道へとつながったのかもしれない。
 

その2.私学校「瓊林学館」にまつわるエピソード

17歳で豊後三賢の一人である帆足万里(ほあしばんり)に学んだ道仙は、文久3年(1863)、28歳のときに、酒屋町(現眼鏡橋近く「長崎大神宮」隣接地辺り)で医院兼私塾を開業。子ども達に読み書きを教える私塾の方で生計を支えていた。

それから約10年後の明治6年(1873)、桶屋町の光永寺に私学校「瓊林学館(けいりんがっかん)」を創設。漢学者の谷口中秋(たにぐちちゅうしゅう)を館長に、イギリス人デントを英語教授に迎え、漢学と英語の両方を学べる学校にした。漢学者でもあった道仙は、文明開化の風潮に敏感に応じた教育方針を選択。それは師である帆足万里の影響を受けたものだった。そんな瓊林学館は評判となり生徒は常に300人。一時は西海第一の大学といわれた。

明治6年に創立した瓊林学館は、ほどなくして西山の地へ移転。その移転先は定かではないが、おそらく後に料亭「瓊林館」となった明治10年に廃庵となった崇福寺の末庵 大悲庵の地だったと推測されている。ここは、オランダ通詞達に日本で初めて英語を教えたアメリカ人マクドナルドが幽閉されていた地で、「我国英語教育発祥の地」として今も傍らに顕彰碑が建っている。
※2007.3月 ナガジン!特集「モニュメントで巡る長崎 前編 鎖国以前〜明治の近代化編」参照
 
料亭「瓊林館」を、道仙は政治の会合などで度々利用。昭和の始め頃まで、この地に「瓊林」の名を残した。またこの「瓊林」の名は明治38年に西山に創設された長崎高等商業学校(現長崎大学経済学部)の同窓会「瓊林会」にも残る。 この「瓊林」の二文字は、漢学者である道仙が好んだ文字で次の漢籍に基づく。

  瓊林栴檀ハ徳ノ備ハル人ニ喩フ


道仙は、光永寺(「瓊林学館」創設の地)前の中島川で拾った貝から珠があらわれたので、瑞兆(良いことが起こるきざし)としてこの名を付けたのだという。
※2010.8月 ナガジン!特集「歴史を語る碑のある風景」参照

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