しばしば「石碑の町」と揶揄される長崎。常に新しい文化を取り入れ、希少な土地を再利用しながら歩んできた土地柄から、確かに貴重な遺構を失い、後に建てられた記念碑だけが歴史を伝えていることは事実だ。しかし、未だに町の片隅に小さな碑が残っている。


ズバリ!今回のテーマは
「道端の碑のメッセージをキャッチ!」なのだ



様々な境界碑

居留地境碑・地番境碑


もちろん石の材質によるのだろうが、新しい記念碑は、研磨された石材の美しいライン、一方、そのもの自体に役割があった碑は、ゴツゴツした自然石というイメージがある。長崎の町で目にする機会がいちばん多いのが、観光名所である旧外国人居留地に点在する居留地境と地番境の碑だろう。安政の開国、それこそ坂本龍馬ら幕末の志士らも目にしていたに違いない碑だ。単に通りすがる程度で判別できるのは、そのままの姿形を留めているもの。特に古くからの道である唐人屋敷跡近くの十人町の坂段を登りつめた活水女子大学の裏手に、やや風化した石に刻まれた文字は「居留地境」が印象的だ。しかし、半分コンクリートにうずまったり、石畳と同化していたり、居留地境を示す碑はまだ数多く点在している。その数80余り。よくよく目を凝らしながら探してみると、当時の様子を体感できそうだ。




◆碑が語るメッセージ
かつて大浦周辺は大村領だった。慶長17年(1612)にわずか4年間、天領であった古賀村は、再び寛文7年(1667)、幕府直轄の天領となっていた。そして、安政4年(1857)、幕府は外国人居留地を造成するために、この天領だった古賀村の“木場”“中里”と、大浦の大村領の土地を交換。この境碑は、外国人居留地造成以前の幕府領と大村領との境をも意味している。当時の飛び地の不思議さを感じる碑でもある。

諏訪神社境碑



上西山にある松森神社の山門下の石段脇にひっそりと建つ碑がある。刻まれた文字は「従是西諏訪神社」。諏訪神社が建立されたのは、弘治の頃(1555〜57)。
信濃の諏訪社から御霊分けされ、当初現在の寺町にある長照寺付近にまつってあったといわれている(その名残としてこの辺りは現在も諏訪町)。戦国時代、キリシタン大名・大村氏の領地となり他教を排斥したため、市内の社寺は破壊されてしまったが、肥前唐津の初代宮司・青木賢清(けんせい)が長崎奉行・長谷川権六に願い出て、森崎大権現、住吉大明神、諏訪大社の3社を合祀して再興、長崎の産土神(うぶすながみ)として寛永元年(1624)、現在の松森神社の場所に建立した。現在の場所に移築されたのは、慶安元年(1648)。一方、松森神社は、はじめは現在の今博多町に創建され、明暦2(1656)、当時諏訪神社が置かれていたこの場所に移されたのだという。

◆碑が語るメッセージ

碑が示す“西”に注目してみよう。この碑より西にあるのが、諏訪神社が現在ある方角であることから、諏訪神社の移築後、松森神社の移築以前に建てられたものであることを物語っている。かつては、一帯が諏訪神社の敷地であったのだろう。
また、本殿脇から続く長崎公園一帯は、諏訪の杜と呼ばれ親しまれている。そのご神木が林立する社叢の中に車が往来する通称「六角道」がある。そのすぐ脇の茂った草むらにうずまるように自然石が横たわっている。その石に刻まれた文字は「従是御立山」。つまり、ここからが長崎奉行立山役所の敷地だという境界を示す石なのだ。




◆碑が語るメッセージ

位置的に何の疑うべきところもない。ましてその大きさからいっても、どこからか運んできたものとは思えない。立山役所の時代からこの場所に鎮座してきた石。それが自然石であることに、往時の風景が目に浮かぶかのようだ。

※2009.12月ナガジン!特集『お諏訪の森の庭園伝説』参照


筑州建山の碑


江戸時代、鎖国期の長崎の模様を物語る碑が、大谷町の飽の浦教会から九州電力飽の浦変電所にかけての石段に残る4基の筑州建山の碑。かつてこの辺りは稲佐岳の伏流水が豊かに湧出(ゆうしゅつ)するところから自然発祥的に「水の浦」と呼ばれていたが、その平坦部の殆どは、鎖国時代から明治初年まで、筑前黒田藩水之浦屯営所が置かれていた。長崎港を警備した筑前黒田藩兵士の宿舎と馬場があったのだ。かつてはこの4基以外にもあったようで、「筑州建山」と刻んだこの碑が屋敷の境界を示すものだった。碑の側面には「従是東西」と刻まれている。

◆碑が語るメッセージ
昭和の頃までこの近辺の人達は上手一帯の丘を「筑前山」とも呼んでいたそうだ。「歴史は語り継がれていくもの」。古びた碑がこうして大切にされていることが、そのことを物語っている。




三菱造船所境碑


岩瀬道町と東立神町の町境、電柱脇に「三造」と刻まれた碑が残る。今はすっかり住宅地となったが、この辺りは、昭和30年代頃までは、バスはもとより車も飽の浦までしか通らず、船だけが唯一の交通手段の「陸の孤島」と呼ばれていた。「三造」とは、察しの通り三菱造船所のこと。かつての三菱造船所の敷地を示す境碑だ。

◆碑が語るメッセージ
三菱造船所の前身は、徳川幕府が1857年(安政4)わが国最初の艦船修理工場「徳川幕府 長崎鎔鉄所」。以後、国営の造船所として明治政府に引き継がれ、1879年(明治12年)には、立神第一ドックがすでに完成していた。1884年(明治17)に民間の三菱経営となり事業を継承。積極的な経営で本格的な造船所として発展していった。とても歴史を感じる趣あるこの境碑が最も古いとすれば、三菱に払い下げられた明治中期のものである可能性もある。現代の町風景に解け込んだ貴重な碑だ。

長崎大学経済学部境碑

長崎大学経済学部の裏門の道脇に、地面からひょっこり頭を覗かせた碑がある。少し傾いたこの碑に刻まれた文字は「學校用」? 土に埋まった部分に“地”があって、「學校用地」なのだろうか。道脇には、ほかにコンクリート製の境碑「長崎大学用地」が立っているが、ひとつだけ、なんだか古めかしい碑だ。長崎大学片淵キャンパス。この地は、明治38年(1905)、東京高商(一橋大)、神戸高商(神戸大)に次ぐ第三高商として開設された国立大学、旧制長崎高等商業学校以来の歴史を持つ校地。もしや、「學校」という文字からして、その頃のものなのだろうか?

◆碑が語るメッセージ
敷地内にはその歴史を物語る遺物が残されている。明治36年(1903)に架設された石造によるアーチ橋、拱橋(こまねきばし)、明治40年(1907)に落成した経済学部倉庫(元銃器庫)、大正8年(1919)に研究館として落成した瓊林会館。この国の登録文化財に登録された建造物は、旧長崎高等商業学校時代のものなのだ。それらと同時代に建てられた碑であるとしたら・・・。100年以上もこの場所で人々の往来を見つめてきた碑ということになる。

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