歴史を紐解く最大の武器は、想像力。年表を暗記する受験勉強がさっぱりつまらないのに比べ、ひとたび興味惹かれる事柄に出会ったら……。今回は、長崎市立山1丁目にお住まいの井村啓造さんがお持ちの“ある自説”に沿って、ロマンあふれるお諏訪の杜散策を敢行。その自説とは……


ズバリ!今回のテーマは
「諏訪の杜には大庭園があった」なのだ




 今回のナビゲーター
 井村啓造さん


井村さんのご自宅は、「六角堂」、または「かすみ道(かすみじ)」などと呼ばれ親しまれるお諏訪さんの神道近く。道中には立派な御神木がそびえ、急なこう配、急なカーブと、まさに観光客には驚きの連続であるこの道は、長崎の隠れた名所でもある。昭和元年に建築された立派な門構えを持つお宅は、井村さんが幼い頃には、仏間はなく、洋風的な部屋や女中部屋のような部屋、二階にもトイレがある、という造りをしていたそうだ。

井村さん「子どもながらに、ウチはよその家と何か違うな、と思ってましたね。」


聞くところ、かつては料亭を営んでいたのだそうだ。こんな高台の、当時ではとても不便そうな場所に「料亭」? 
そんな、子どもの頃の井村さんの遊び場所は、もちろん、お諏訪さんの境内だった。「六角堂」が整備されたのは、今から約30年前。井村さんの子ども時代のこの辺りには、木々がうっそうと茂り、巨大な自然石がゴロゴロ転がった、格好の遊び場。

井村さん「ここ石の上を、ぴょんぴょん跳んで遊んでいたんですよ。」


また、木々に覆われたこの辺り一帯が探検にうってつけの場所だった。仲間達と駆け廻る中、それほど気にも止めずに見ていた石に刻まれた文字。当時は、「・・・立山」。“立山”の文字しか見えなかった。

井村さん「それが、大人になってから気づいたんですよ。この石に刻まれた字が、“従是御立山”、つまり、ここからが長崎奉行所立山役所の敷地だという境界を示す石だということをね。」


茂った草で下の方は見えづらいが、草をよけると確かにその石には刻まれていた。位置的に何の疑うべきところもない。大きさからいっても、どこからか運んできたものとは思えない。立山役所の時代からこの場所に鎮座してきた石なのだ。そして、周囲には他にも大きな石が散在している。

井村さん「すると、この石を境にして、立山役所と諏訪神社と、くぎられていたってことですよね。当然、この道はまだなく、このような自然石がもっとあったんです。」

井村さんのお父様は、長崎の歴史文化に造詣が深く、南京大虐殺などを経験するなど、厳しい戦時中を生き抜いた方だった。井村さんは幼い頃、そんなお父様と一緒に立山の地に次々と桜の樹を植えていったそうだ。最初に植樹したのは、諏訪公園の丸馬場。そして、この六角堂を抜けた場所へ。そう!現在、長崎随一の桜の名所である立山公園の桜は、井村さん親子が植樹した「立山千本桜」だっだ。

井村さん「父は、戦争を経験し、自分にできる『平和』活動は何かと考えたんでしょうね。そんな『平和』活動もいいんじゃないでしょうか。」


<丸馬場の桜>

井村さん「そんな父が、丸馬場にある忠魂碑の横にある石組の前に立ち言ったんです。『ここからは安禅寺という寺の跡地。この付近から六角堂まで、昔はその寺の庭園があったようだからいつか調べてみなさい。』その言葉がずっと、頭の中にあったんでしょうね。いつしか、そういう目で周辺を調査するようになりました。」

2008.12月ナガジン!長崎の宝『六角堂』参照
2004.9月ナガジン!特集『長崎『坂』ストーリー』参照

さきほどの「従是御立山」と刻まれた石は、県立図書館から六角堂に入り、W型のカーブを抜け、少し幅が広まり直線になったすぐの場所、左手にある。その向かい側に、不思議な自然石群がある。

井村さん「調べていくうちに、小さい頃、乗って遊んでいたこの石は、ひょっとしたら大きな日本庭園の跡じゃないか、そう思うようになってきた。スケッチしたり、写真を撮ったりしながら想像を膨らませると、それぞれの石が庭園にあるにふさわしい石の形に見えてきたんですね。」

こう配の下手に立って眺めると、確かに石群は石の形や配置、その重なり具合から庭園の佇まいを漂わせている。

井村さん「例えば、一番奥の中央の石が神仙島、その手前左が大亀石、その前には、口元が人工的に削られた形跡が残る鯨石。その手前の石は、人魚が子どもを抱えたように見える人魚石。右側には、座禅を組むためのような平らな座禅石があります。神仙島というのは、仏教でいうところの「須弥山(しゅみせん)」で、日本庭園で神が住む所で、この庭のメインになるところですよね。」




<井村さんが考える大庭園跡>


<鯨石>


<座禅石>

井村さん「この神仙島の意味を分からずに、中心から切ってありますよね。この前にある切り分けられた石が、日露戦争の時に勝利を祈願する祭壇に使われた石で、陰陽が施されています。四つ角に杭を立てられるように穴があけてあるでしょう。ここに注連縄を張って祈願したんでしょうね。父によると、戦前までこの石の横には大砲の弾があったそうです。」


<日露戦争の勝利を祈願した祭壇>

確かに、鯨石などは、鯨が巨体を現しながら泳ぐ姿に見える!

井村さん「鯨石と人魚石の間は、小さな池になっていたんじゃないかと思うんですよ。昔から、ここには草は生えても雑木は絶対に生えてこなかったんです。」

周囲の木々は新しいものも多いが、中には、かなりの樹齢を誇るイシモチの木や蔓をどこまでも這わせた藤の木もあり、時の経過を感じさせる。

井村さん「そして、この右手には、小さな東屋の跡なのか、礎石が残っています。高さを高くしたら、この庭園を眺めるにふさわしい場所ですよね。もしかしたら、ここには、そんな茶屋があったのかもしませんよね。」


<礎石の跡>

この庭園跡らしき場所を下った場所には、東照宮がある。

井村さん「私は、要するにここは東照宮に対する畏敬の念を現すために造られた庭園だったのではないかと推測しているんです。私は、ここを“石ヶ原”と名付けています。」

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