井村さん「東照宮は明治初年に破壊されましたが、明治34年(1904)に建て替えられました。勝海舟もこの東照宮を参拝し、自分の刀剣を奉納していますよね。当然、龍馬もやってきたことでしょうね。」


<東照宮>

正保2年(1645)、天台宗の僧・玄澄が住んだ現在の諏訪公園丸馬場の地に、承應元年(1652)、長崎奉行が寺を建立。その年玄澄は江戸・東叡寺の大僧正・公海から松嶽山正光院安禅寺の寺号と、絵師狩野家貞の筆による東照大権現家康像を与えられていて、寛文12年(1672)、牛込忠左衛門が長崎奉行に着任した際、東照宮の神像を奉持して安禅寺の上方に東照宮が建立された。

井村さん「安禅寺と東照宮は長崎一の大寺院となって、多くの信仰を集め、寄進も多かったようです。東照宮下の石段は、昔からの古い石段のようです。おそらく、一般の人はここまでくることはできなかったんじゃないでしょうか?それにしても周囲の石垣のきれいに切り分けられた石積みは素晴らしいですよね。ここの石段脇の狛犬は、町年寄だった高島秋帆のお父さんが寄進したものです。これに比べて、この横の石段は狭いですよね。正面の石垣も、ここだけ、大きさも違うように見受けられます。後年に造られたものではないでしょうか。とにかく、県立図書館横から丸馬場を経て東照宮にかけての現存する石門、石垣、石灯籠、石の唐獅子は当時を彷彿とさせる素晴らしいものがあります。私は、この石垣の石は近くの女風頭といわれる岩原郷立山から切り出されたと推測しています。」



<美しい石垣>


<高島家寄進の狛犬>

<古い石段>

安政以降、外国貿易の減退により安禅寺は衰退し、明治に入り廃仏毀釈により廃寺に。3000坪を越した敷地の大半が、現在、私達が憩いの場として利用している長崎公園となった。

東照宮から下り、安禅寺時代の石門の右側へと足を運ぶ。現在、公衆トイレがある辺りだ。

井村さん「ここの石組みがとっても変わっているんですよね。もしかしたら、安禅寺の鐘楼がこの上にあったんじゃないでしょうか。」


<公園内に残る古い石段>



<変わった石組み>


長崎八景にも描かれた安禅寺の鐘楼。井村さんの大胆な推測に、当時、お諏訪の杜一帯に鳴り響いたという晩鐘の音が聞こえてくるような、そんな感動を覚えた。

2008.3月ナガジン!特集『越中先生と行く 長崎八景の世界〜江戸期の景勝地〜』参照

先程の大庭園の話に戻る。石組付近の庭園の広さは約600坪。この広い庭園が長崎公園の内に存在していたと考えると、それだけでワクワクしてくる。
井村さん「私は、『楠を守る会』を作って、10年程前から楠の分布とその特徴を調査しています。樹齢約700年の公園内の大楠など、これらの大木が歳月を重ねこれらの石組を見守ってきたんですから、これを後世に伝えていくことは、いろんな意味でとても大切なことですよね。」

<諏訪の杜の大楠>

最後に……。井村さんによると、戦前、この辺りにはぼた餅屋が4軒ほどあり、ビリヤード場などもあったそうだ。井村さんの自宅が料亭で、洋風の造りであったことも考えると、戦前まで、この辺りは外国人も招き入れるような雰囲気であり、多くの人々が往来する賑わう町であったということだろう。往時の諏訪の杜の風情に加え、新たなイメージが加わった。井村さんの自説「諏訪の杜には大庭園があった」を、あなたはどう見るか? お諏訪さんに参詣することがあれば周囲を散策してみてはどうだろう? すると、あなたにも井村さん同様に新たな発見があるかもしない!?
 

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