宗教と印刷文化は密接な関係

東洋でも西洋でも、木版術・印刷術は、まず宗教の経典を作ることで始まる。前述したように、日本でも中国の北宋代(960年〜1127年)以降、中国の影響で仏典の木版印刷が用いられるようになったが、中世ヨーロッパにおいて、写本は修道院を中心に行われ、「写字生」と呼ばれる人々によって組織的に作られていた。宗教の教義を広めるためには、共通の経典が重要だからだ。しかし、安土桃山時代末期から江戸時代の初期にかけての一時期、「嵯峨本」などの古活字本や「キリシタン版」などの活版印刷が盛んとなった。この頃、仏教関連書ではなくはじめて印刷されたのが、「伊勢物語」や「徒然草」。漢字ひらがな混じりで書かれたこれらの本は多数印刷されたのだとか。

それはそうと「キリシタン版」って何だろう? 実は木版印刷や、本木昌造による活版印刷が普及する以前、長崎には、「キリシタン版」という活版印刷による書物があったのだ。

時代は、かつて日本におけるキリスト教の拠点であり、イエズス会領の時代。イエズス会員のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案し実現した「天正遣欧少年使節」帰国後のことだ。天正10年(1582)、九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4人の少年を中心とした使節団は、天正18年(1590年)に帰国。その時、彼らは「グーテンベルク印刷機」を持ち帰った。印刷機は長崎で荷揚げされると加津佐のコレジョに直送され、翌年からマカオより持ち帰った鉛活字を使い「キリシタン版」の刊行が始まった。第1号はローマ字綴りの和文による聖人伝「サントスの御作業のうち抜書」というもので、これが日本で最初の西洋印刷機による金属活字本であり、欧文の翻訳出版となった。“グーテンベルク”とは、ドイツ出身の金属加工職人の名で、彼は1445年頃に鉛活字による活版印刷を完成させた人物。つまり、初めての活版印刷による日本語書物は、世界の近代印刷の祖の名が付いた印刷機から誕生したというわけだ。この「グーテンベルク印刷機」は、加津佐のあと天草、さらに長崎に移って大いに活躍したが、禁教による教会破壊が続いた慶長19年(1614)にマカオへと渡った。加津佐以来20余年に渡る出版活動によって生まれた「キリシタン版」は約50種といわれ、その中には、慶長8年(1603)、長崎で刊行された約32,000語収録の「日葡辞書(にっぽじしょ)」(日本語・ポルトガル語)など、日本の文化に多大な影響を与えたものも数多い。また50種のうち30種余りが現存するというから、一度は目にしたいものだ。
 

ド・ロ神父の版画とコルベ神父の雑誌

かつて修道院で「写字生」と呼ばれる人々によって組織的に作られていた写本の中には、壮麗な挿絵がつけられ、美術品としても価値のあるものも多いという。長崎でも、キリスト教布教のために描かれた木版画がある。明治元年(1868)、後に大浦天主堂の建立に尽力したプチジャン神父とともに長崎に上陸し、外海の民衆を物心両面で支えたド・ロ神父が日本人絵師に作らせた10種の木版画、通称「ド・ロ版画」だ。
木版画に彩色した「煉獄の霊魂の救い」(県指定有形文化財)など、ド・ロ神父は読み書きの出来ない人や子ども達にも理解できるように、キリスト教の教義を版画で表現した。


ド・ロ神父

※2005.1月 ナガジン!特集「爽快ドライブ2〜祝!長崎市〜夕陽が美しい隠れキリシタンの里・外海」参照

一方、時代を下って、昭和5年(1930)。ポーランド出身、わずか24歳で司祭となりアジアでの布教活動の重要性を唱えていたコルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)が、上海航路に乗り長崎に降り立った。故郷で「無原罪の聖母の騎士信心会」を創立していたコルベ神父は、大浦の神学校(旧羅典神学校)で哲学の教鞭をとりながら、南山手の洋館(旧雨森病院)を借り、そこに日本支部を設置。その一角に印刷所を構えると、日本語の活字で印刷したキリスト教を優しく読み解く雑誌「聖母の騎士」の記念すべき創刊号を発行した。発行部数1万部。発行日は昭和5年5月15日と、実に、来崎した翌月には出版を実現していた。表紙には「無原罪の聖母の騎士」の誌名とともに、両手をさしのべている無原罪の聖母が描かれていた。
コルベ神父



当時の印刷機械や製本機具



雑誌「聖母の騎士」

※2004.2月 ナガジン!ミュージアム探検隊「聖コルベ記念館」参照
 

『長崎の印刷物』の歴史は、やはり長崎の町が持つ特異性と同様に幅が広い。今もそれぞれの資料館や博物館などで、目にすることができるので、ぜひ一度は目にしておきたいものだ。印刷物の役割は、ただ情報を伝えるに留まらない。その価値や魅力は、きっとこれからも無限に広がっているような気がする。

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