TEL095(825)2075 本河内2丁目2-1

開館  9:00〜17:00
入館料  無料
休館  無休
駐車場  15台


●JR長崎駅からのアクセス
路面電車/長崎駅前電停から蛍茶屋行きに乗車し、終点下車、徒歩15分。
バス/長崎駅前東口バス停から県営バス網場・諫早東厚生町・矢上団地行きに乗車し、番所バス停で下車、徒歩2分。
車/長崎駅前から約15分。



コルベ神父自らが選んだ
彦山斜面に建つ記念館


長崎市街地を取り囲む山の一つ、彦山の斜面に建つ聖母の騎士修道院の奥、レンガ張りの円筒型の建物が、1986年に開館した聖コルベ記念館(聖マキシミリアノ・コルベ記念館)。この場所は修道院を建てる際に、山の方がいいと、コルベ神父自身が決めたのだという。
ここはポーランド出身のコルベ神父が、昭和6年(1931)、無原罪の園修道院を開設、5年後に修道院内に聖母の騎士学園の前身である「本河内神学校」を開校した場所だ。
『聖母の騎士』を創刊したコルベ神父。
アウシュビッツ強制収容所で殉教し、聖人となったコルベ神父。
長崎にいながら私達ははたして彼のことをどれだけ知っているだろうか?
そこでその疑問にこたえるべく、今回は彼の遺品や信念に触れることができる聖コルベ記念館へ……探検隊いざ潜入!





遺品を集めた記念館には
神父の精神世界が広がっている


年間6000人が訪れるという聖コルベ記念館。館内中央には、当時のままに復元されたコルベ神父が使用していた机やイスを配置した「聖コルベの部屋」がある。そしてその部屋を取り囲むように、数々の資料が展示されているのだ。

コルベ神父着用の祭服、典礼書、帽子、手紙、それにコルベ神父直筆の長崎日記。
また、コルベ神父は永井隆博士とも交流があり、コルベ神父は彼の診察を受け結核と診断されていた。胸のレントゲン写真フィルムや、永井隆博士の書簡も残されている。
そしてアウシュビッツ強制収容所での出来事を示す写真やナチスによる死亡報告書、爆破されたアウシュビッツの火葬場のレンガの破片と人骨片。遺髪。
昭和56年(1981)に来崎したローマ法王ヨハネ・パウロ二世は聖母の騎士修道院と聖コルベ小聖堂を訪れ、コルベ神父の遺品の数々に接し大きな感動を受けて涙ぐんでおられたのだという。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の写真も展示されている。


館内には、「友のために生命を捨てる、これにまさる大きな愛はない」(ヨハネ福音書15章)を全うし殉教した、コルベ神父の信念がこだましているかのようだ。
貴重な一つ一つの展示物については、聖コルベ記念館内資料室長である小崎修道士が懇切丁寧に案内してくれる。




聖コルベ記念館内資料室長
小崎登明修道士



おすすめチェックポイントベスト5


1.当時のままに復元された「聖コルベの部屋」

館内に入るとまず目に入るのが、復元された「聖コルベの部屋」。
中には、コルベ神父と共に来崎したゼノ修道士の手作りという素朴な机とイス、そしてその机を使って『長崎日記』などの原稿を書いている在りし日のコルベ神父の写真が配されている。





2.「聖母の騎士」創刊当時の印刷機械

コルベ神父は、来崎した1ヶ月後には現在も続いている「聖母の騎士」を創刊し、一万部を発行している。館内にはコルベ神父が使った活字や印刷機具、製本の機械、「聖母の騎士」創刊号などが展示されている。
当時は活字を一つ一つ選び、それに小さなふりがなをつける、そんな大変な細かい作業を、修道女や信徒さん達が手伝い制作していたのだという。




3.アウシュビッツの悲劇

昭和11年(1936)、会議のためにポーランドへ帰国したコルベ神父は健康を害し日本へ戻ることができなかった。そして第二次世界大戦勃発。ポーランドはナチスによって占領され、昭和16年(1941)、コルベ神父はアウシュビッツ強制収容所に送られた。そして妻と子がいるという死刑を宣告された若者の身代わりとなって餓死死刑室に送られ殉教したのだ。
館内にはコルベ神父が殉教した地下室の写真と、代わりに助けられたガョヴィニチェク氏と家族の写真、筆跡なども展示されている。
アウシュビッツで起きた事実に関しては、わかりやすく編集されたビデオを見ることができる(約8分)。





4.偉大なるコルベ神父が切手のモチーフに!

コルベ神父は、殉教してわずか30年の昭和46年(1971)には福者(カトリック教会で聖人に準ずるものと認められた信徒の称)となり、昭和57年(1982)にはローマ法王ヨハネ・パウロ二世によって聖人の位に上げられた。世界各国で多くの人々に崇められたコルベ神父は、ポーランドと西ドイツで発行されている切手のモチーフになっている。





5.コルベ神父を支えたゼノ修道士のこと

コルベ神父同様、ポーランドに生まれたゼノ・セブロフスキー修道士は、コルベ神父と共に来崎。「聖母の騎士」の出版に尽力した人物だ。黒い修道服に汚れた帽子をかぶり、黒い大きなカバンにドタ靴で全国を歩きまわった。トレードマークは白いアゴヒゲ。「ゼノ、死ヌヒマナイ」が口癖で、そのユーモラスな人柄で多くの人々を惹きつけてやまなかったという。
コルベ神父が帰郷した後も日本に残ったゼノ修道士は、昭和20年(1945)、長崎で被爆。戦後は戦災孤児や貧困者の救援活動を行い、廃品回収業の「アリの町」の援助を行なった。
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が来日した際、彼は車椅子のまま涙して祝福を受け、まるでその時を待っていたかのように天に召されたという。享年90歳。コルベ神父に関する資料と共に、ゼノ修道士の功績を紹介する展示物もある。




長崎にいてもコルベ神父のことを深く知る機会は少ない。
しかし、長崎ゆかりの神父のりっぱな記念館が長崎にあるのだ。
一度ゆっくり、コルベ神父の偉業と彼の生涯を垣間見ることができるこの聖コルベ記念館に立ち寄ってみよう。




聖コルベ記念室(南山手2-6)
1995年開館。大浦天主堂下へ向かう坂の右側にある聖コルベ記念室は、コルベ神父が来崎後の約1年間、仮の修道院として活動した場所。当時の木造洋館はすでに焼失したが、その洋館で使われていたレンガ造りの暖炉が残っている。ほかに写真や、手紙、遺髪など約70点を展示。







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