活版印刷の祖・本木昌造

長崎を代表する偉人の一人に名を連ねる『本木昌造』という人物がいる。「近代活版印刷の祖」と呼ばれる人だ。彼は文政7年(1824)、長崎の新大工町に誕生(新石灰町 現鍛冶屋町の説もあり)。10歳の時にオランダ通詞 本木昌左衛門の養子となり、平戸のポルトガル通詞にはじまるオランダ通詞の家系の名家 本木家の6代目を継いだ。本木は、オランダの書をよく読み、なかでもグーテンベルクよりも早く活字印刷術を発明したといわれる同国のラウレス・コステルの伝記を読んで感銘を受けたという。江戸時代末期の嘉永元年(1848)、オランダ船が積んできた西洋の活版機材(印刷機や活字)をもとに、本木をはじめ、品川藤兵衛、楢林定一郎、北村元助ら通詞の案で、長崎奉行西役所に「活字版摺立所」が設立された。これが後の「出島印刷所」。

本木昌造肖像/長崎県印刷工業組合蔵
そこで本木は鉛の流し込み活字を造りあげ、日本人で初めて鉛版印刷に成功。手始めに「オランダ語文法書シンタクシス」528部など、仲間と一緒に蘭書の復刻を手掛け、そこで印刷された欧文出版物群は『長崎版』と呼ばれた。1852年には、自著の『蘭和通弁』も印刷している。しかし、本木はその時点の「本木活字」を不完全と見なし、完成には、上海のミッションプレス美華書館で活躍する活版技師アメリカ人ウイリアム・ガンブルの金属活字鋳造を学ぶことが必要だと考えた。本木は、明治2年(1869)自らが頭取をしていた長崎製鉄所の付属として、興善町に「長崎活版伝習所」を開き、ガンブルを招く。その際ガンブルは、中国文や欧文、和文の活字を持ち込んだ。そしてついに明治3年(1870)、新町(現 興善町)に我が国初の民間活版所である「新町活版所」を創立し、活字鋳造と印刷を開始した。昭和51年(1976)に没後100周年を記念し建立された記念碑「近代活版印刷発祥之地」が残る、萩藩(長州藩)蔵屋敷、済美館跡(現 興善町 長崎県自治会館)こそが、近代における印刷業のはじまりの地だったというわけだ。


長崎活版伝習所跡



新町活版所跡

時は文明開化の幕開け。「新町活版所」は、急増した洋書の需要にすばやく対応。本木の功績によって、よりスピーディーに、大量に印刷することを実現させた。しかし、まだ明治初期は、木版から活版への移行期。福沢諭吉の『学問のすゝめ』など当時のベストセラーは、まだ木版印刷で和装の本が多数を占めていた。だが本木はその後、大阪には大阪活版所、東京には長崎の出張活版製造所(後の東京築地活版製造所)を開き、「本木活字」は中央の新聞・出版界を席巻。日本の印刷文化の基礎を固めていった。日本の日刊新聞のはじまりである「横浜毎日新聞」の創刊、また、明治5年(1872)に創刊した週刊で初の地方紙「長崎新聞」も彼や彼の門弟らが手掛けたものだ。


日本初の地方紙「長崎新聞」/長崎歴史文化博物館蔵


「本木活字」の復刻版


かなり以前より、本木昌造によって作成されたものと推測される3,293本もの「木製の活字」が、諏訪神社に所蔵されていることが確認されていた。全面が黒く染まった、この「種字(たねじ)」と呼ばれるものこそ、活字製造の元となるもので材料は柘植(つげ)の木。現在、その一部が長崎歴史文化博物館にて展示されている。本木は「長崎活版伝習所」において、活版技師ガンブルの指導のもと「電胎法」と呼ばれる高度な活字鋳造法を修得し、初めて納得のいく和文活字を作り上げる事に成功した。「電胎法」とは、まず柘植の木を彫って原型となる「種字」を作り、それを組んで「蜜蝋」で型を取る。さらに「メッキ槽」につけて、電気分解によって銅を型に付着させる技法のことだ。

本木が51歳という若さでこの世を去ったのは、明治8年(1875)年。それから120年余りの時を経た平成11年(1999)、諏訪神社に献納されていた「本木活字」を調査、保存しようという動きが起こり、長崎県印刷工業組合および本木昌造顕彰会を中心に「本木昌造・活字復元プロジェクト」が立ち上がった。 彼らは、3年という歳月をかけ木製活字の調査、検証を行なうとともに「蝋型電胎法」による活字鋳造の工程を再現。見事に「本木活字」を復元させた。


復元された「本木活字」種字


復元された「本木活字」凹版

出島オランダ商館跡のすぐ側にある古い洋館造りの建物の中に「長崎県印刷工業組合」の事務所がある。ここには、広く一般公開はされていないが、復元された「本木活字」の工程ごとの現物や、最近まで「活版印刷」の工程に用いていた貴重な道具が展示されている。興味がある方は、ぜひ問い合わせを。
●長崎県印刷工業組合
TEL095(824)2508
http://pb-naga.platooon.com/index.cgi



長崎県印刷工業組合の展示品

 

同世代の小曽根乾堂の篆刻

本木昌造と同じ時代に長崎に生きた人物に、『小曽根乾堂』がいる。彼は勝海舟や坂本龍馬と交流を持ち、亀山社中−海援隊の支援者としても名高い長崎の豪商・小曽根家の当時の当主。乾堂は、文政11年(1828)、小曽根家の第一子として誕生した。

彼は、書、南画、篆刻、詩、音楽、陶芸と、とにかく文芸の道に秀でており、特に篆刻の技術は優れ、すでに17歳の時には名士の求めで刻印。嘉永年間初頭、彼が21歳の時には自刻印の印譜(印章の印影などを掲載した書籍)『乾堂印譜』『乾堂印藪』を刊行している。近年、子孫にあたる小曽根家宅より、乾堂のものと思われる革製の財布が発見され、その中には活版による名刺が入っていた。これは同世代の二人が、何らかの関わりを持っていたと推察できる事実。また、活版印刷の祖としてはもちろん、通詞、航海、造船、製鉄と多方面で活躍していた本木昌造のこと、小曽根家との関わりも考えると、本木自身もこの長崎の地で坂本龍馬と交流があったことも推測できそうだ。

小曽根乾堂肖像/小曽根吉郎氏蔵
 

居留地の外国人のための「英字新聞」

さて、時は流れて文久元年(1861)、長崎外国人居留地に住むイギリス人 ハンサードは「長崎シッピングリスト<The Nagasaki Shipping List and Advertiser>」という名の新聞を創刊した。この英字新聞こそ、日本ではじめての近代的新聞第1号! ハンサードは、以前ニュージーランドで英字紙サザンクロスを発行していた人物だといわれている。「長崎シッピングリスト」の内容はその名の通り、長崎港の出入船のリストや、上海の企業をスポンサーとした広告などを掲載したタブロイド判。船舶についても日付・船名・トン数・船長名・出港地・積み荷・荷主など、かなりの詳細が記され、また、長崎のローカルニュースなども掲載された。

印刷機は上海から輸入したものを使い、印刷経験のある本木昌造一門に「編集、印刷をはじめ、新聞づくりを教えるから、希望の青年たちはぜひ協力してほしい」と申し出たという。本木の後継者、平野富二は、仲間を説得。陽其二、谷口黙次、茂中貞次ら有能な門人達が参加しノウハウを学んだ。この「長崎シッピングリスト」の廃刊後も、「長崎タイムズ」などが発行されたが、いずれも短命にて廃刊に。永続的な英字新聞は、明治3年(1870)にポルトガル人 F・ブラガが創刊した「長崎エクスプレス」が、途中改名しながらも956号まで発行。また、F・リンガーも「ナガサキプレス」を創刊し、昭和4年(1929)まで発行し続けた。

英字新聞/長崎歴史文化博物館蔵
 

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