“五足の靴”の一行のうち
与謝野寛(よさのひろし)(鉄幹・てっかん)(1873-1935・明治6年-昭和10年)
北原白秋(きたはらはくしゅう)(1885-1942・明治18年-昭和17年)
吉井勇(よしいいさむ)(1886-1960・明治19年-昭和35年)

『五足の靴』とは、明治40年(1907)、7月28日から8月27日まで、九州西部中心に約1ヶ月旅した、5人(与謝野寛(鉄幹)、北原白秋、大田正雄(木下杢太郎)、吉井勇、平野萬里/※与謝野寛は他4人の師)の詩人、歌人による紀行文のこと。旅から10日ほど遅れた8月7日〜9月10日まで東京二六新聞に5人が交互に執筆、29回にわたって連載された。一行は長崎、西海路に残るエキゾチックな南蛮文物やキリシタン文化に触れることを旅の目的に、福岡、佐賀、佐世保、平戸、長崎、島原、有馬、天草を漫遊。長崎へは平戸より船で入り、翌日には茂木港から天草へと渡っている。つまり長崎市内は一泊二日の旅だった。


吉井勇はこの旅で長崎入りしたのを皮切りに、その後も度々長崎を訪れ、なんと200首にも及ぶ長崎の歌を詠んでいて、稲佐山にある吉井勇歌碑、
「おほらかに 稲佐の嶽ゆ 見はるかす 海もはろばろ 山もはろばろ」ほか、県内には9期の歌碑がある。



稲佐の吉井勇歌碑

さて、この時の旅で与謝野寛が詠んだ歌を2首紹介しよう。

「長崎の 円き港の 青き水 ナポリを見たる 目にも美し」

「長崎の いづれの寺の 大門も 海の夕日に 染まるひととき」


彼らの足跡を辿ると、これらの歌がどこで詠まれたものかが推測されるのだという。すると、前述の歌は諏訪神社のある諏訪山。当時ここからは長崎港と長崎の街が一望できる絶景地だった。自分達が先程入港した港を高台から見下ろし、あまりにも美しい良港で、港を取り囲む街の景観がまるでナポリのようだったことに感動して詠まれたのだろう。そして後述の歌は、太陽が稲佐の山深く入った夕暮れ時に訪れた寺町通りで詠まれたと推測されている。いくつもの寺院の山門が長崎港の方向から差し込む夕日に照らされているのを目にしたのだろう。連なる寺院の中には唐寺もある。夕日に染まった山門にエキゾチックな長崎の一面を感じたことだろう。


諏訪の杜から望む長崎港


夕陽に染まる崇福寺の三門

この旅の2年後に発表し注目を浴びた北原白秋の初めての詩集『※邪宗門(じゃしゅうもん)』は、旅の収穫が詰まった作品集。この中に漂う南蛮情緒は、白秋自身がキリシタン文化にゆかりのある長崎の地に憧れていたからだといわれているが、もうひとつ、白秋は長崎名物にもこだわったという。それは、カステラ。『邪宗門』刊行の翌年、雑誌『創作』に掲載されたエッセイ『桐の花とカステラ』に、その魅力を「……粉っぽい新しさ、タッチの フレッシュな印象、実際触って見て懐かしいではないか。……」と記している。また、白秋は

「カステラの 黄なるやはらみ 新しき 味ひもよし 春の暮れゆく」

という歌や、カステラの詩も書いている。カステラの色や質感が、言葉の魔術師ともいわれた白秋に創作のインスピレーションを与えたということが面白い。


●“五足の靴”一行ゆかりの地

◇上野屋跡
長崎で一泊したのが現在の万才町、家庭裁判所から南側の一帯にあった高級旅館・上野屋。紀行文には長崎編そのものが記されていないが、さまざまな検証の結果、上野屋に一泊したことが定着してきた。上野屋旅館は明治初期創業で、それ以前は町年寄の高嶋家の本邸があった。解説書には「宏壮なる三層楼を以って客室に充て、応接室、化粧室、浴室等の配置宜しきを得、客室の装飾及び調度に意を用いたり。庭園また満酒にして風致に富む。その創業は明治10年頃にして官辺の信頼厚く馬車の出入常に絶えず」とあり、とっても立派な建物だった様子がうかがえる。しかし、残念ながら昭和20年(1945)の原爆の影響で焼失した。


◇五足の靴碑

五足の靴の一行が上野屋に宿泊したところから建立された記念碑は、以前まで上野屋跡の近くに立っていたらしいが、現在は長崎県警察本部横道から坂を下り、交差する右に上る樺島町の植樹帯に建っている。



五足の靴の碑
設置の場所に疑問が残る五足の靴の碑。

芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)(1892-1927・明治25年-昭和2年)

辰年辰月辰日辰刻生まれのため龍之介と命名された芥川龍之介は、いわずと知れた大正時代を代表する小説家。その芥川が年来の憧憬の地だったという長崎の地に訪れたのは二度程。その後、相当数の南蛮、キリシタンものを執筆していることから、この二度の長崎旅行は、後の芥川の文学活動に大きな影響を与えたといわれている。はじめは、大正8年5月6日から10日まで菊地寛と旅行し、長崎県立病院に勤務していた斎藤茂吉を訪ねている。 そして、大正11年(1922)4月25日から5月30日まで、長崎に一ヶ月間滞在。 永見徳太郎、蒲原春夫、渡辺庫輔らが案内し、丸山遊郭でも遊んだ。この年の6月に発表された作品が『長崎』だ。

菱形の凧(たこ)。
サント・モンタニの空に揚つた凧。
うらうらと幾つも漂つた凧。
路ばたに商ふ夏蜜柑やバナナ。
敷石の日ざしに火照(ほて)るけはひ。
町一ぱいに飛ぶ燕。
丸山の廓の見返り柳。
運河には石の眼鏡橋。
橋には往来の麦稈帽子。
---忽(たちま)ち泳いで来る家鴨(あひる)の一むれ。
白白と日に照つた家鴨の一むれ。
南京寺の石段の蜥蜴(とかげ)。
中華民国の旗。
煙を揚げる英吉利(イギリス)の船。
『港をよろふ山の若葉に光さし……』顱頂(ろちやう)の禿げそめた斎藤茂吉。ロティ。
沈南蘋(しんなんぴん)。
永井荷風。
最後に『日本の聖母の寺』その内陣のおん母マリア。
穂麦に交じつた矢車の花。
光のない真昼の蝋燭の火。
窓の外には遠いサント・モンタニ。
山の空にはやはり菱形の凧。
北原白秋の歌つた凧。
うらうらと幾つも漂つた凧。


この作品から、長崎の街に漂う雰囲気そのもの、長崎特有の文化に心躍らせている芥川の様子が伺えるようだ。



長崎ハタ


見返り柳


大浦天主堂

●芥川龍之介ゆかりの逸品

◇『水虎晩帰之図』(長崎歴史文化博物館蔵)

芥川は東検番の名花とうたわれた芸妓・照菊(杉本わか・後年料亭「菊本(きくもと)」の女将)に、河童の絵を銀屏風に描いて与えている。数多く河童を描いた芥川だが、乳房のある『水虎晩帰之図』はこれだけで、最大の傑作と言われるものだ。

橋の上ゆ(から)胡瓜(きゅうり)なくれば(投ぐれば)
水ひひき(響き)すなわち見ゆる
かふろ(禿 おかっぱ)のあたま
   お若さんの為に
    我鬼(がき・龍之介の俳号)酔筆

『水虎晩帰之図』
(長崎歴史文化博物館蔵)

と、一首がしたためられたこの屏風は、長崎出身の実業家で作家の永見徳太郎邸『銀の間』にあったものだった。当時、照菊と恋仲になったという話は聞かないが、長崎にも河童伝説があることからか(?)興にまかせ、気分よく一気に描き与えたのだという。

※2005.9月ナガジン!特集『真昼の銅座巡遊記』参照
 

遠藤周作(えんどうしゅうさく)(1923-1996・大正12年-平成6年)

名作『沈黙』を執筆するきっかけともなった“踏絵”との出会いから、度々長崎を訪れるようになり、しだいに長崎が“心の故郷”となっていったという遠藤氏。彼が『沈黙』の主題に心を費やしながら長崎を歩きまわっている時に出会ったのが、遠藤周作記念館がある外海・東出津にある黒崎教会。遠藤氏はこの取材旅行中に、禁教時代に大変な苦労を強いられながらも潜伏し信仰を守り続けた信徒、そして、山道をいくつも抜けなければ辿り着けなかった場所へ布教した宣教師の苦労に触れ、その悲しい歴史と共に、この村の風景に大きな衝撃を受けたという。『沈黙』の中でもその時目にした風景を再構成して織り込まれている。

遠藤氏が気に入っていた教会がもうひとつある。大籠町にある善長谷教会(ぜんちょうだにきょうかい)だ。山の頂きに建ち、眼下には美しい海を望むことができる。遠藤氏は、そこに腰を下ろし、小説のことやその他もろもろ、いろいろと思いを巡らせたという。



黒崎教会
遠藤氏が後に『切支丹の里』に記したように、ド・ロ神父の指導によって建設が計画された黒崎教会は、かつてより貧しい村にもかかわらず赤煉瓦で作った洒落たものだった。



善長谷教会
『女の一生』の舞台、ゼンチョ谷。このエリアのキリスト教徒は、外海から潜伏キリシタンが移り住んだのがルーツだ。

※2002.11月ナガジン!特集『爽快ドライブ〜海風そよぐ深堀・香焼エリア』参照

最後に遠藤氏が長崎を訪れるたびに足を運んでいたというお気に入りの場所を紹介。
それは、大浦天主堂の左側に沿った坂道・祈念坂(きねんざか)。観光客で賑わう通りとは一変、静寂に包まれた石段は長崎情緒そのもの。途中、ふりかえると長崎港の風景と天主堂の後ろ姿を眺めることができ、遠藤氏は石段に腰を下ろし、その風景を楽しんだのだという。



祈念坂
祈念坂から港を見下ろしたこの風景は、“南山手風情”と呼ばれる長崎らしい風景のひとつ。


●遠藤周作ゆかりの地

◇遠藤周作文学館
平成12年、外海町が遠藤周作氏の代表作『沈黙』の舞台になったこと、また、遠藤氏自身がキリシタンの里である外海町の景観を気に入っていたことから、夫人の協力のもと設立された。作家・遠藤周作氏の生涯と足跡、遠藤文学に関わる展示物など、約2万5000点以上の貴重な資料を展示している。展示室には、生前遠藤氏が使用していた書斎を彷佛とさせるデスクと共に、生原稿、筆記用具といった貴重な遺品も展示されている。

◆開館時間/9:00〜17:00 
  入館料/一般350円・小中高生200円
  無休
  問い合わせ/TEL0959-37-6011


遠藤周作文学館外観
敬虔なカトリック信者である側面がうかがえる彼の生涯と足跡を辿った展示物は興味深いものばかりだ。


◇出津文化村
外海の功労者であるド・ロ神父が力を尽くしこの町を支えた証である建物と、その歴史を今に伝えるいくつかの文化施設が点在。入り口からすぐの場所に外海を舞台に描かれた小説『沈黙』で知られ、外海・黒崎町に文学館を構える作家・遠藤周作の沈黙の碑があり、

「人間がこんなに哀しいのに主よ海があまりに碧意いのです」

と、沈黙の中の一節が刻まれている。


※2005.1月ナガジン!特集『爽快ドライブ2〜祝!長崎市 夕陽が美しい隠れキリシタンの里・外海』参照



沈黙の碑
この碑の背後に、ちょうど遠藤周作文学館を望むことができる。


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