地元出身の人物はもちろんのこと、長崎を訪れた数多くの先人達もこの街に心を惹きつけられた記録が残されている。先人達が見た、感じた長崎とはどんなものだったのだろう? そこで、長崎にゆかりのある歴史上の人物が愛した長崎をその人物が訪れた際の長崎の様子と共に紹介。


ズバリ!今回のテーマは

「あの人の目線で長崎再発見!」 なのだ



長崎ゆかりの人物といっても数多い。今回は、向井去来、大田蜀山人、坂本龍馬、五足の靴の一行、芥川龍之介、遠藤周作をピックアップ! やはり記録が残る人物となると作家や俳人が多いのだ。彼らが見て、感じた愛すべき長崎とはどんなものだったのか、時代を追って辿ってみよう。
 

向井去来(むかいきょらい)(1651-1704・慶安4年-宝永元年)

まずは、江戸時代中期に活躍した松尾芭蕉の門下・蕉門十哲の一人、向井去来。この名前はナガジン!でも何度も登場してきたが、彼は長崎出身の俳人。長崎聖堂を建立したことで知られる儒学者の向井元升(げんしょう)の二男として興善町に生まれた。本名は兼時(かねとき)。万治元年(1658)8歳の時に京都に移り住み、幼少期から武術の修行に励んだ去来だったが、帰京後、文学の研究に励み、松尾芭蕉の門弟となった。蕉門十哲の中で最も優れた俳人で、江戸前期を代表する俳人となった。温厚で誠実な去来は、芭蕉の教える“侘び寂び”を十分に理解することができる高い知性と深い教養を備えていたため、芭蕉は京都・嵯峨野の去来の別荘・落柿舎(らくししゃ)を何度も訪れ、句も残している。“西国三十三ヶ国の俳諧奉行”というあだ名は、芭蕉が去来を褒め讃え言った言葉だという。


落柿舎
多くの俳人が出入りした雰囲気が今も漂う去来の別荘・落柿舎。小さな門を入ると主人の在宅を知らせる蓑と笠が掛けられている。



向井去来の墓
去来の本当の墓は哲学の道近くの新正極楽寺(真如堂)にあるのだというが、落柿舎の北側に広がる墓苑には去来の遺髪を埋めたといわれる小さな墓があり、訪れた多くの人が手を合わせている。


さて、そんな去来は、度々長崎へも帰郷。長崎の地を詠んだ俳句も多く、市内各所に句碑が建っている。なかでも有名なのは「芒塚の去来句碑」。日見トンネル東口上にあるこの碑には、元禄2年(1689)秋、里帰りした去来が京都へ帰る際、義理の従兄弟・簑田卯七(みのだうしち)など親戚達が見送りに来てくれた様子を詠んだ俳句が刻まれている。本来ならば見送りは蛍茶屋までが通例。しかし彼らは、おそらくそれより先の日見峠辺りまで見送りに来てくれたのだろう。

「君が手も まじる成べし はな薄(はなすすき)」

去来は、別れに手を振るあなた方の姿は見えなくなったが、この日見峠の秋風にそよぐススキの穂波のなかに“さようなら”とみんなが振る手入っているのだろう、という句を詠んだのだった。

※2004.6月ナガジン!特集『越中先生と行く 長崎街道〜市内編〜』参照




芒塚の去来句碑
県指定重要文化財の「芒塚の去来句碑」。

また、現在の正覚寺から田上を経て茂木へと向かうかつての茂木街道沿いに、江戸元禄期、去来の義理の伯母である田上尼(でんじょうに)が住む草庵、千歳亭(せんざいてい)があった。去来は元禄11年(1698)秋、京都の落柿舎から長崎に帰省し千歳亭に滞在。その時に詠んだ句を刻んだ句碑が田上の徳三寺境内の千歳亭跡に残されている。

「名月や たかみにせまる 旅こゝろ」

田上に月が迫ってくると詠まれたこの句。かつて田上は月見の名所だった。“たかみ”とは、旅(た)が身と田上をかけていて、去来の郷愁の思いが込められている。

※2004.2月ナガジン!特集『越中先生と行く 旧茂木街道と茂木の町』参照



田上の去来句碑
田上から見る月は、今もやっぱり美しいことをご存知?

そして、諏訪神社にも去来の句碑がある。

「たふとさ(尊さ)を 京でかたるも 諏訪の月」

月を季語に用いた句を数多く残した去来。長崎を離れて京都に移り住み、芭蕉ほか多くの俳人と交わりつつも、心はいつも生まれ故郷の長崎を思っていたのだろうか?

故郷の親戚、旅人の自分に迫る月、そして去来の心にいつまでも尊い光を灯すお諏訪の杜から眺める長崎の月。これらの句からも去来の長崎への深い思いが感じとれる。



諏訪の去来句碑
長崎くんちで賑わう踊り馬場下の鳥居の手前にある去来の句碑。

●向井去来ゆかりの地


◇向井去来生誕地
後興善町(うしろこうぜんまち)(現在の興善町)が、慶安4年(1651)、向井去来が生まれた生誕の地。現在、この地区では平成20年1月開館予定の長崎市立図書館(仮称)が建設中だ。


向井去来生誕地
向井去来生誕地と刻まれた石碑。

大田蜀山人(おおたしょくさんじん)(1749-1809・寛延2年-文政6年)

“月”といえば、この人も長崎のあるものを好んで詠んでいる。幕府直轄領であった長崎に、長崎奉行支配勘定方として派遣され、約1年間長崎に滞在した大田南畝(なんぽ)だ。彼は“江戸の天明狂歌ブーム”で知られる狂歌三大家の一人。長崎滞在中も“昼の南畝と夜の蜀山人”といわれ、昼は幕府の吏員、夜は文化活動を行っていた。そもそも狂歌(きょうか)とは、社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した短歌(和歌)のパロディ。短歌や和歌の形式を模してはいるが、内容がまったく異なるため文学的には別物と捉えられている。大家である蜀山人が長崎滞在中に好んで詠んだのは「月」。それも「彦山と月」のコンビで、長崎の方言を使った狂歌だ。

「わりたちも みんな出て見ろ 今夜こそ 彦山やまの 月はよかばい」

「彦山の 上から出づる 月はよか こげん月は えっとなかばい」

お諏訪さまから眺める彦山の、山の端に出る名月はどこで見るより気高く美しいですよ。当時より人々の信仰を集めていた彦山。夜になり、黒々とそびえるこの山の上に、神々しく輝く月。周囲にはまち灯りもない暗黒の夜に瞬く月の姿はさぞ美しく、蜀山人の心を惹きつけたのだろう。さらに、長崎弁の響きもまた蜀山人にはとても強烈で、ユーモラスに響いたんじゃないだろうか? 長崎人にとっては、とても親しみをもって受け入れられる狂歌だ。


蜀山人句狂歌碑
蜀山人の狂歌が刻まれた碑が、平成2年、諏訪神社境内、諏訪荘前に建立された。


●大田蜀山人ゆかりの地


◇鯖くさらかし岩

高さ20mはある大きな岩の上に、さらに不安定そうに岩が…今にも落ちそう! 
「岩かどに 立ちぬる石を 見つつをれば になへる魚も さはくちぬべし」
これは蜀山人が時津街道にある奇妙な形の岩を見物して詠んだ狂歌。 落ちてきそうな岩を怖がり、落ちるのを待っていたらとうとう鯖を腐らせたという意味の歌を詠んだことが長崎名勝図絵に書かれているが、これがこの「鯖くさらかし岩」という名の由来なのだそうだ。(西彼杵郡時津町)

※2005.11月ナガジン!特集『越中先生と行く 二十六聖人が通った道〜浦上街道』参照


鯖くされ石
ここの地名は継石なので別名・継石坊主(つぎいしぼうず)。2つの岩が重なって、近くで見ると雪だるまや小坊主のようにかわいい岩だ。

坂本龍馬(さかもとりょうま)(1836-1867・天保6年-慶応3年)



海路から見た長崎の町

京都を中心に西は長崎、東は江戸と、この三都市が時代の舞台だった幕末。ことさら学問や医術など西洋文化が花開いた長崎は、幕末の志士らが数多く往来したことは周知の通り。なかでも現代においてなお根強い人気を集める長崎ゆかりの人物といえば、土佐藩出身の坂本龍馬だ。龍馬は文久2年(1862)から慶応3年(1867)までの5年間で、龍馬は2万キロ以上を蒸気船で移動する旅をしている。龍馬が初めて長崎入りしたのは慶応元年(1865)。もちろん海路だ。当時は今よりも入り江が深く、緑濃い山々が迎えてくれたに違いない。外国船があちこちに繋留される長崎港の風景を目の当たりにして、大きな期待を胸に眺めたことだろう。

また、龍馬が愛した人物にお元という丸山芸者がいた。茂木びわで知られる茂木の生まれ、よく気が利き、男好きする美貌の持ち主だったという。琴や三味線がうまく、龍馬は音曲を存分に楽しむことができたとか。龍馬は、海援隊の本部があった小曽根邸に、りょう(龍)としばらく住んだが、りょうが下関に移ってからは、このお元と過ごしくつろいだのだという。

丸山界隈

●坂本龍馬ゆかりの地

◇土佐商会跡(海援隊発祥の地)

かつて西浜町だったこの地には、幕末、土佐屋敷が置かれていた。土佐商会もここにあったため、坂本龍馬や中江兆民達も出入りしていたのだという。

※ 2005.9月ナガジン!特集『真昼の銅座巡遊記』参照


土佐商会跡
きっと龍馬はこの界隈を袴姿にブーツで闊歩していたのだろう。

◇亀山社中跡と龍馬のぶーつ像

慶応元年(1865)に坂本龍馬が設立した日本最初の貿易商社・亀山社中。その遺構である亀山社中跡が現在も残っている(未公開)。すぐ近くには、亀山社中130年を記念し、龍馬が当時履いていたといわれる皮のブーツと船の舵がデザインされた『龍馬のぶーつ像』がある。


亀山社中跡


龍馬のぶーつ像
足を入れてはい!ポーズ! 観光客の皆さんに人気の記念写真スポットだ。

◇小曽根邸跡

慶応3年(1867)、亀山社中は後藤象二郎率いる開成館の長崎出張所(土佐商会)傘下となり土佐藩から資金援助を受けるようになる。このとき海援隊に改称、本部は現在長崎地方法務局があるこの小曽根邸へと移った。



小曽根邸跡
小曽根家は越前藩松平家御用達の豪商で、龍馬や勝海舟のゆかりの地だ。

◇風頭公園(竜馬の銅像、司馬遼太郎『竜馬がゆく』文学碑、上野彦馬の墓)
龍馬と長崎のまちとの最初の出会いであった長崎港が一望できる風頭公園の高台には、平成元年(1989)、坂本龍馬を慕う有志の集まり「竜馬の銅像ば建つうで会」によって建立された龍馬の銅像がある。また、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で、坂本龍馬に触れた人も多いだろうが、昭和41年(1966)に菊池寛賞を受賞した『竜馬がゆく』の文学碑も、風頭公園内に建立されている。


竜馬の銅像
腕を組み、目を細め遥か彼方を見つめるような目線……堂々と建つその姿に龍馬ファンならずとも龍馬の偉大さを実感する銅像だ。


『竜馬がゆく』文学碑
碑文には「船が長崎の港内に入ったとき、竜馬の胸のおどるような思いをおさえかね、『長崎はわしの希望じゃ』と、陸奥陽之助にいった。『やがては日本回天の足場になる』ともいった」と刻まれている。



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