【 3.坂本国際墓地 / 新坂本国際墓地 】



●JR長崎駅からのアクセス

市電 /

長崎駅前から赤迫行きに乗車し、茂里町電停で下車、徒歩8分。

バス /

バス停長崎駅前南口から長崎バス下大橋行き(8番系統)に乗車し、合同庁舎で下車、徒歩5分。

車 /

長崎駅前から約10分。


坂本国際墓地は大浦国際墓地がいっぱいになったため明治21年(1888)に開かれた長崎では一番新しい国際墓地。
ここには長崎に長い間にわたって滞在した外国人夫婦や子どもなど家族が多く眠り、大浦と違って落ち着いた雰囲気を感じる。

電車道から向かって右手が最初にできた坂本国際墓地で、入口には永井博士の墓がある。
入って右には29基ほどのユダヤ人が眠るユダヤ人墓地、奥の一画には義和団事変で亡くなったフランス人兵士や、第二次世界大戦中捕虜として亡くなったアメリカ人兵士が葬られている。

車道を隔てた墓地が後に設けられた新坂本国際墓地。
こちらには日本の近代産業に偉大な足跡を残したトーマス・B・グラバーをはじめ、その息子の倉場富三郎とその妻ワカ、ウィルソン・ウォーカーらが眠っている。
ここは小高い丘にきちんと整列したかのように墓が配置されている。


★ブライアンさん
「国際結婚をした人の墓も多く、木漏れ日を浴びながら仲良く穏やかに眠っているかのようです。ここは友情と恋愛の墓と呼ぶにふさわしいでしょう」

坂本国際墓地には約500基の墓石がある。
その中の4人にスポットを当て、彼らの「物語」に触れてみよう。


入口のアーチに「BET-'OLAM(永遠の住まい)」と刻まれたユダヤ人墓地。
そのアーチの右の石柱には西暦1893年、そして左の石柱にはユダヤ教の年号に従って5653年の数字が刻まれている。

現在唯一、長崎の地にユダヤ人社会があったことの名残りを留めているのが、坂本国際墓地のユダヤ人区域。
この中央に胸像がある。彼はシグマンド・レスナー
ユダヤ人の商人で、明治16年(1883)年長崎に来て、梅ヶ崎で雑貨店を経営し、ばく大な財産を儲けた人物だ。
彼は日本で最初のユダヤ人教会を建て、道を造ったり、街並みをきれいにしたりして、随分長崎に貢献をした。
しかし、国籍がオーストリアだったため、第一次世界大戦中は敵国ということで店を閉められる。

戦争が終わり再び開店したが間もなく病死。
財産の一部は敵の財産として日本政府に没収され、奥様はやむなく長崎を離れてしまった。


ジェームズ・ウィリアムズとその娘リタ
天保9年(1838)英国で生まれたジェームズ・ウィリアムズは、1880年代中頃、長崎へ来航。
日本人女性と結婚して、大浦9番地の裏通りに飲食店を開業。
その名も「ランド・ウィ・リヴ・イン・レストラン(我らが居留地レストラン)」とした。
夫妻は女の子を授かり、リタと名付ける。
長崎で育ち学齢に達したリタは、外国人居留地のほとんどの女の子どもたち同様、フランス系の女子修道院で初等教育を受けた。
リタは母親から吉田ツタという日本名ももらっている。
リタ・ウィリアムズは明治31年(1898)5月、16歳で亡くなり、坂本国際墓地に葬られた。
南山手の庭に愛する子どもの遊ぶ姿をみることができなくなった親は、説明と慰めを求めて聖書を読んだのだろう。
クスノキの陰でリタ・マリアが何故遊んでいないかがわかったようである。
もっと良い所で遊ぶように呼ばれたからだ。
墓石にはこんな言葉が刻まれている。

「子どもたちを私のところに来させよ。とめてはいけない。
神の国をうけるのは、このようなものたちである」

ルカの福音書十八章十六節。

その碑文の下には「吉田ツタ」という日本名、そしてウィリアムズ夫妻は娘への愛の証しとして台座に手毬と羽子板を刻んだ。
ジェームズ・ウィリアムズはその2年後に死亡。
娘の傍らに眠っている。


ポルトガル人シーマン・ザ・シーザーは出身地マカオから明治5年(1872)に来崎。
様々な職業を転々とした後米国領事館で通訳兼事務官の仕事に就いた。

その息子であるアルミロ・デ・スーザーは明治13年(1880)に出生。
南山手26番地の邸宅で少年時代を過ごし、フランス人神父らが経営するカトリック系男子校「海星高校」を卒業。
その後兄と共に小売り及び問屋業の「ザ・スーザー商会」を旗揚げした。
しかしこの事業はうまく行かず、後に前述したシグマンド・レスナーの会社に入社した。
明治35年(1902)には「香港上海銀行」の行員となり、上海本店及び漢口支店で勤務。
明治37年(1904)に長崎へ転勤して、その年完成した長崎支店(現在の旧香港上海銀行長崎支店記念館)の新社屋で勤務する。
この頃、日本人女性と結婚。
南山手8番地に新居を構え、数年後には主任となる。
しかし大正9年(1920)には健康を害し、長期欠勤を余儀なくされた。

大正10年(1921)11月1日、41歳のとき、肺炎のため自宅にて死去。
妻と8人の子供達を残しての早すぎる死だった。
アルミロ・デ・スーザーの生涯は平凡かつ平穏なものだったが、彼は19世紀後半から20世紀初頭にかけて長崎で生まれ育った多くの外国人たちの一人だった。


フランス人の葡萄酒商ヴィクトール・ピナテールは、文久3年(1863)、長崎で貿易商を営む父のもとへフランスからやって来た。
その時18歳。
大浦天主堂の建材や、ステンドグラスをフランスから輸入したのが彼の父、ユージン・ピナテールだった。(彼の墓は大浦国際墓地にある)
ヴィクトール・ピナテールは異国の地の寂しさをまぎらすため丸山通いをはじめ、そこで角の油屋の遊女正木と熱烈な恋愛をし結婚。
ところが幸せな結婚生活も束の間、正木は極度の酒乱癖があり、ピナテールの惜しみない愛にもかかわらず体を壊して3年後には病に倒れ急死してしまう。
日本側の記録では妻の死によってうちひしがれたピナテールは、商売もやめ、出島5番館に引きこもって狂ってしまったとか。
死ぬ間際まで正木の箱枕だけは離さなかったという。
遊女と外国人との恋は数多くあるが、これほど一人の遊女に惚れ、身を滅ぼしていった外国人も少ない。
歌人斎藤茂吉は生前のピナテールを訪ね、彼の寝室で朱の箱枕を見て歌を詠んでいる。
寝所には括枕のかたはら
朱のはこ枕おきつつあはれ

ピナテールは大正11年(1922)、75歳で寂しくこの世を去った。


【 1.稲佐悟真寺国際墓地 】
【 2.大浦国際墓地 】


||[周辺地区地図]||



【バックナンバー】
2002.02.04.「シーボルトも歩いた道」
2002.01.04.「長崎でチャイナに出会う」
2001.12.01.「冬の長崎に行ってみよう!」
2001.11.01.「寺町界隈ぶらり散歩道」