【 1.稲佐悟真寺国際墓地 】



●文化財


唐人墓地祭場所石壇(市指定史跡)


●JR長崎駅からのアクセス

バス /

バス停長崎駅前南口から長崎バス稲佐行きに乗車し、悟真寺前で下車すぐ。

車 /

長崎駅前から約5分。


長崎にある3ケ所の国際墓地の中で、最も古い歴史を持つのが稲佐悟真寺国際墓地。
他の2ケ所が公有地で長崎市が管理しているのに対し、ここはお寺の歴代住職によって守られてきたという歴史を持つ世界的にも珍しい国際墓地だ。
それも昔から外国人を受け入れ異文化を取り入れてきた長崎らしい特性といえる。

慶長7年(1602)唐人墓が最初に造られ中国人墓地となり、次に出島オランダ商館のオランダ人のためオランダ人墓地が造られた。
それからしばらく時が過ぎた安政5年(1858)にロシアから艦隊が来航した際、病死した船員を葬るためのロシア人墓地が造られた。
その後もポルトガル、アメリカ、イギリス、フランス人が葬られている。
合わせるとおよそ千体以上が埋葬されていることになるロシア人墓地と中国人墓地に関しては、現在まで言語の壁などからどのような人々が眠っているのか、故人の姓名を調べるまでに至っていない。


寝墓が特徴的な
中国人墓地


ロシア正教の礼拝堂が建つ
ロシア人墓地


★ブライアンさん
「宗教や国境を越えて、いろいろな異国の人々が仲良く眠るこの稲佐悟真寺国際墓地は、歴史と国際交流の墓と言えるでしょう」

港を望む一等地に広がる稲佐悟真寺国際墓地に眠る4人の「物語」を紹介しよう。

長崎の国際墓地には、埋葬されている人物の生涯や職業を知る手掛かりとなるような墓碑はそれほど多くない。
碑文はおしなべて姓名と没年月日、そして短い宗教的な詩や訓戒からなっている。
しかし、稲佐悟真寺国際墓地にある2基の墓碑には、遠い昔のロマンスへとしばし誘われる。
その墓碑には亡くなった恋人のためにその墓を建てた日本人芸者の名前が、小さな文字で刻まれているのだ。


稲佐山に向かって煉瓦塀が続く坂段を上ると両側に無数の中国人墓地が広がる。
上るにつれ、見るからに新しいとわかる中国人の墓石を目にするが、今も子孫が長崎に住んでいるのだろう。

右手の中国人墓地の上段の奥に入っていくと、ポルトガル、アメリカ、イギリス、フランス人らが葬られた一画がある。
この中で一際目を引く墓の主はグスタフ・ウィルケンス

彼はドイツ系アメリカの商人で、開港後の安政6年(1859)に長崎へ来航。
外国貿易商社「カール・ニクル商会」の共同経営者となり、明治2年(1869)1月、37歳の若さで亡くなった。
彼は死ぬ時、自分の財産の全てを丸山遊女・玉菊に与えている。

そして玉菊はその財産の大半を使ってけた外れに大きな墓碑を建てたと言われている。
確かに側面に「津国屋内 玉きく」の文字が刻まれていた。

玉菊は彼を深く愛していたため、残りのお金も貧窮している人たちに与え、玉菊自身は貧しい中に生涯を終えたという。
灯籠の台に丸い舵取りをかたどった中に十字架を入れた立派な墓碑が、現在もウィルケンスと玉菊との遠い恋物語を語っている。


煉瓦造りの塀に閉ざされた門扉。
悟真寺の脇を通り、日本人墓地に隣接したオランダ人墓地は、その一画、ひと際静寂に包まれている。


オランダ人墓地に眠るジェイムズ・ラインフォードは長崎市の姉妹都市ミデルブルフ市のあるオランダ・ジーランド州の出身で、長崎で貿易関係の仕事をしていた商人だった。明治3年(1870)、長崎在住中、53歳で死去。
悟真寺のオランダ人墓地に埋葬された最後の人物となった。
彼が慶応2年(1867)外国人居留地自治会の警官としての職を得るまでの長崎での活動に関することは分かっていない。

ただ墓碑の横の部分に「八ツ橋之を建つ」という文字が刻まれている。
これは八ツ橋という丸山芸者が建てたもので、この文字だけ静かに、しかしハッキリと二人の愛を今に伝えている。


長崎に宣教師として訪れ、後に日本の英語教育に貢献し、現在の東京大学設立のための基礎を築いたギード・フルベッキとその妻マリアに待望の第1子が安政7年(1860)1月26日誕生した。
長女の名はエマ・ジャポニカ・フルベッキ

しかし喜びも束の間、エマは2月2日に亡くなったのだ。
彼女はそれまでは西洋人の女性が入国できなかったため、日本で初めて生まれた西洋人の子どもということになる。
わずか1週間の命の赤ちゃん。
新天地での愛娘の誕生に胸踊らす若夫婦の心情がミドルネーム・ジャポニカ(日本の意)に託されている。


その横がこのオランダ人墓地の中でも、というより日本にあるヨーロッパ人の墓の中でも最も古い墓。
さて、誰の墓石?

答えはヘンドリック・デュルコープ
あまり耳にしたことはない名前かもしれない。彼は東インド会社の出島オランダ商館長だった。

しかし商館長としてインドネシアから出島に派遣されてくる途中、安永7年(1778)、船上で亡くなり、ここに葬られたのだ。
デュルコープは明和8年(1771)と安永2年(1773)に副商館長を、更に安永6年(1777)に商館長を務めていた。
しかし日本へ向かう航海途上、7月27日に急病のため死去。

遺体は密封保存され、8月15日に長崎に到着するや悟真寺のオランダ人墓地へ運ばれた。
彼の葬儀は盛大に執り行われ、オランダ人の同胞たちは喪服で正装して参列、様々な模様の旗が風に翻っていたらしい。
埋葬後、墓前で仏教の僧侶が経を唱えたが、これはその後恒例となり今日まで至っている。
墓碑にはオランダ語で頌徳文が記され、羽のついた砂時計や花輪の中に描かれた小さな十字架模様と子羊などの装飾画も刻み込まれていたが、今では風化してハッキリとはわからない。
この当時オランダ人は宗教活動を一切しないというのが出島での条件だった。
それでも十字架を彫らせ、黙認したということは驚くべきことで、当時の長崎の人の彼への敬意の表れと同時に、長崎人の西洋人に対する理解がうかがえる。


【 2.大浦国際墓地 】
【 3.坂本国際墓地 / 新坂本国際墓地 】


||[周辺地区地図]||



【バックナンバー】
2002.02.04.「シーボルトも歩いた道」
2002.01.04.「長崎でチャイナに出会う」
2001.12.01.「冬の長崎に行ってみよう!」
2001.11.01.「寺町界隈ぶらり散歩道」