● 優秀カピタンの偉業と休息

さて、出島370年物語もそろそろ終盤。今回は、度々登場してきた一人の男性に注目したいと思います。それは、後世にその名を轟かす優秀カピタン、ヘンドリック・ドゥーフです。ドゥーフの初来日は寛政11年(1799)。はじめはオランダ商館の書記として出島入りしました。その後、商館長(カピタン)に任じられ、1803年から1817年まで、実に14年もの間、出島の実権者として在任しました。これは歴代商館長の中でも最も長い在任期間。彼は、その長い勤続中、3度の江戸参府を体験。オランダ本国がナポレオン一世の軍隊に占領され、バタビアもその影響を受けて貿易も滞り、出島オランダ商館の維持が難しくなった際もよくこれを守り抜きました。また、ロシア使節レザノフやイギリス軍艦フェートン号が長崎港入りした際は、日本側に協力。難局収拾に尽力してくれました。そして、勝海舟や福沢諭吉ほか多くの幕末の志士らが「聖典」とした蘭和対訳辞書「ドゥーフ・ハルマ」の編纂にも協力。結果的に、日本を“開国”へ導く手助けをしたとも言えるかもしれませんね。 ドゥーフ肖像画
ドゥーフ肖像画
<長崎歴史文化博物館所蔵>

さて、当然ながら長く滞在すれば、長崎人との交流も深まるばかり……こと、出島への出入りを許されていた唯一の女性、遊女との親密な関係は言うまでもありません。ドゥーフと遊女といえば、vol.2「カピタン部屋の移り変わり」でも触れているように、ドゥーフの子、道富丈吉の母である“瓜生野(うりうの)”が有名ですが、それより以前、長崎に来て間もなくに寄合町西田吉お抱えの遊女“園生(そのよ)”と関係。出島に呼び入れて暮らすうち、二人の間には“おもん”という女の子が生まれました。しかし、おもんはわずか9歳で伝染病にかかり夭折してしまいました。また、ドゥーフには、そのほかにも寄合町京屋お抱えの遊女“いろは”や引田屋お抱えの“此滝”など、懇意にしていた遊女がいたようです。

文化元年(1804)9月から1年間長崎奉行支配勘定役を勤めた狂歌師・蜀山人こと大田南畝が著した『瓊浦雑綴』、文化二乙丑年三月二十八日のくだりには次のような記述があります。

三月二十八日加比丹遊女二十人ばかり、座頭をもいざないて茂木の浦にきて引かせ、裸になりて水をも泳ぎしといふ、遊女揚げ代ばかりの雑費三百五十目にて、すべての弁当支度などの物入は一貫目ばかりなるべし。

つまり、ドゥーフが座頭(この場合、おそらくは三味線や胡弓の演奏家)と遊女を引き連れて、千々石湾を望む茂木の海岸へと豪遊したというのです。

また、同年遡ること二月十一日には、以下のように記されています。

二月十一日村田氏の寓居の庭より、出島の方を見しに、例の青白紅の旗(オランダの国旗)たてたり、これ加比丹の外に出しなるべしといふ、夕つかた(夕方)に垣の外に人しげくゆきかふ声すれば出て見るに、娼妓十余人を先にたゝせて加比丹ならびにヘトルなどのかへるなり、供人あまた倶して合羽籠(供の者の雨具を入れて、下僕にになわせた籠)もたせしもおかし、機関のやうなる箱をもになひてかへるなり、今日は浦上へ白魚とりにゆきしといふ、めつらかなる見ものなり。

ドゥーフがヘトル(副商館長)やその他のお供とともに、10数名の遊女を伴って浦上へ梁遊び(梁簀“やなす”を張って、流れてくる魚を捕る遊び)に出掛けたことを伝えています。現在、浦上川に架かる梁川橋(稲佐橋より一つ上流に架かる橋)付近には「梁川町」という町名が残っていますが、その辺りはかつて白魚が取れる名所で、白魚の梁漁にちなんで名付けられた町名なのですね。

出島オランダ商館長を長きに渡り勤めあげた優秀カピタン・ドゥーフは、その長きに渡る出島滞在中、しばしば長崎奉行所の許可を得て、商館員や遊女を引き連れて、息抜きの遊歩に出掛けていたようです。

※出島370年物語 vol.2「カピタン部屋の移り変わり」参照
※出島370年物語 vol.6「出島ゆかりの女たち」参照
※出島370年物語 vol.8「出島の災難」参照
※出島370年物語 vol.9「出島の事件簿」参照
 
★出島ワールド人物伝★
歴代商館長と最も親密な間柄の日本人といえば阿蘭陀通詞も、もとはオランダ商館が平戸にあった頃から存在した役職でした。享保元年(1716)頃に完成の『崎陽群談』には、平戸から長崎へ移住した通詞には、高砂長吉郎、石橋庄助、名村八左衛門、肝月白左衛門、秀嶋藤左衛門、西吉兵衛、横山又兵衛、志筑孫兵衛という通詞たちがいて、いずれも明治維新まで阿蘭陀通詞を家業としたとあります。阿蘭陀通詞はオランダ語を邦訳する以外、文字を研究することは禁じられていましたが、実際には洋書を読み、オランダ語のほかフランス語やラテン語、英語などを学ぶ者も出てきたといいます。その中の一人が平戸から移住した志筑家8代目、志筑忠雄です。彼は志筑家の養子となり、安永5年(1776))に稽古通詞となりましたが、若くして病気を理由にその職を辞し、蘭書に没頭。現在までに50点近くにのぼる著作が確認されていて、その半分近くが西洋天文・物理学関係の蘭書からの翻訳だといいます。そしてその中に、出島3学者の一人、ケンペルの『日本誌』の一部を訳出した写本「鎖国論」がありました。しかし、ケンペルは、“鎖国”という言葉は使用しておらず、“鎖国”はあくまで志筑のオリジナルの造語。広く広まったのも、“開国”に対しての“鎖国”という意味で、明治以降のことだったといいます。阿蘭陀通詞の個性も人それぞれ。いずれにせよ、出島を通し、日本人に世界へ向ける目を開かせてくれた立役者的存在だったことに違いありません。
 





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