● 出島ゆかりの女たち

出島入口に立てられた「制札」に

     禁 制
一、 傾城之外、女入事

とあったように、出島には遊女以外の女性の出入りは固く禁じられていました。これは、出島に住むオランダ人が妻子を連れてくることを許されなかったなか、幕府が認めた例外措置でした。傾城=遊女。かつて、長崎丸山に存在していた遊郭街は、京の島原、江戸(東京)の吉原、上方(大坂)の新町と並び称されるほどの有名な花街。

京の女郎に、長崎いせう(衣装)、江戸のいきじに、はればれと、大さかの揚やで遊びたい。何と通ではないかいな。

天明期(1781〜788)、一世を風靡した狂歌人、蜀山人(大田南畝)の『和漢同詠道行』に記された時花(はやり)唄にうたわれるように、豪華絢爛で晴れやかな衣裳を身にまとっているのが、鎖国期の丸山遊女の特徴でした。それは、海外貿易で潤う長崎の街ならではのこと。
そして丸山遊女最大の特徴は日本行き、唐館行き、オランダ行きの三種があったことでしょう。オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフと瓜生野(うりうの)、オランダ商館医のシーボルトと其扇(そのぎ/タキさん)、彼らの間には子どもも生まれ、出島で生まれたロマンスとしては有名です。また、長崎の遊女の中には、プレゼントとして受け取った貿易品を換金する役割を担う者もいたようです。つまり、抜け荷の片棒。そして遊女を仲立ちとした海外文化は長崎にとどまらず全国各地に伝播していきました。丸山遊女達の存在は、男性が女性を求める単に生理的な役割だけではなく、長崎の町の性格をも変えるものだったのです。そして遊女が出島に出入りすることが緩衝作用となったことで、オランダ人と幕府との関係が長期間に渡って友好的に働いたのではないかと推測されています。
楠本滝の肖像画

さて、遊女しか入れなかったそんな出島に、立ち入った一人の女性がいました。彼女の名は、ティツィア・ベルフスマ。日本へ旅した最初の西洋人女性、出島オランダ商館長、ヤン・コック・ブロムホフ夫人と言えばおわかりでしょう。1817年8月16日土曜日、出島オランダ商館長を最高年数の14年間務めたヘンドリック・ドゥーフの後任となるブロムホフに付き添い、彼女は生まれて16ヶ月の息子ヨハネスと乳母のペトロネッラ、ジャワ人召使いのマラティとともに長崎港に到着しました。しかし、出島は女人禁制――。ティツィア一行の来崎は長崎中を巻き込んだ大騒動に発展。その余波は日本国中に広がりました。

1639年に江戸幕府との間で取り交わした遵守事項――夫人同伴は、歴然たる違反行為だったのです。しかし、家族と同行すると決断したのはブロムホフでした。彼は以前に4年以上、荷倉役で出島に赴任していた際、日本人の心の機微を理解していると思っていました。また、前回の滞在時に自らが行なった日本のための勇気ある行動や好意などが、評価されると考えていたといいます。しかも前任者は、フェートン号事件の英雄ともいえるヘンドリック・ドゥーフ。不安がなかった訳ではありませんでしたが、この偏った規制はそろそろ見直されてもいい時期なのではないか……ブロムホフは心の中でそう思っていました。 ちなみにブロムホフも最初の来崎の際、糸萩という遊女と親密になり、二人の間には夭逝してしまいましたが娘もいました。

ブロムホフ一家を乗せた船が長崎湾に入港。二発の大砲の発射と色とりどりのペナントによる旗信号によって、本船がオランダ船であることと、友好の目的でやって来たことを知らせました。しかし、なかなか上陸許可は下りず、奉行所は乗組員を明らかにする合図を要求、結局明るい時間の交渉は許されず、福田の小さな入江へと誘導されました。そして、ドゥーフの取り計らいもあり、夜が明けてやっと長崎奉行から二隻の入港と上陸許可とが下ります。さて上陸です。通詞、警護番役、長崎奉行年番通詞などが盛装して望む日本側主催の公式な歓迎行事に出席したティツィア。彼女の特製の宮廷ドレスに宝石をまとった姿は、地元の人々に強烈な印象を与え、その夜長崎の町は大騒ぎになったといいます。ティツィアはオランダ語を話す通詞達や、日本語を流暢に話すドゥーフに驚き、尊敬。また、ドゥーフの料理人が用意した寿司の大皿と米から造ったワイン、醤油の味に舌鼓を打ちました。

その後、ドゥーフへの友情の念から、長崎奉行も直々に知恵を出し、彼女達の滞在許可を求める嘆願書を時の将軍である家斉(いえなり)のもとへ送りました。しかし、返ってきたのは“やってきた船に乗せて国外退去させよ”という返事……。結果、十六週に渡る出島での滞在を経て、彼女達は故国へと帰っていきました。悲しいことに、任期を終えブロムホフがオランダへ帰国する3年前にティツィアは他界。二度と生きて会うことは叶わなかったといいます。

古くから長崎土産として親しまれている古賀人形のひとつ『西洋婦人』は、ティツィアとヨハネスの姿を模したもの。ティツィア本人は、塀に囲まれた出島の中にいて長崎の人々の目に触れていないつもりでしたが、子どもを連れた紅毛人の女性の話題は市中で持ち切りとなっていました。好奇の目や羨望の目、いろんな目にさらされたことでしょうが、日本へ旅した最初の西洋人女性、ティツィアの存在は、『西洋婦人』となって、今も語り継がれています。


古賀人形 『西洋婦人』
 
 
★出島ワールド人物伝★
ティツィアの存在が今も語り継がれているのには、彼女に触発され、作品に残した芸術家達の存在が大きいようです。シーボルトのお抱え絵師として知られる川原慶賀は、もともと出島の出入りを許された御用絵師。年来の付き合いからドゥーフともブロムホフとも親しくしていました。9月の初旬のある日、慶賀はブロムホフ家族の肖像画を描きたいと、オランダ側に許可を求め、慶賀の師である石崎融思(ゆうし)とともに素描を行ないました。しばらくして慶賀は、この素描を元に『ブロンホフ家族図』(神戸市立博物館蔵)や『ティツィアとマラティ』(長崎県美術館蔵 or 長崎歴史文化博物館蔵)など、多くのバリエーションに富んだブロムホフ一家像を描いています。そんな彼の絵は、日本中が注目する西洋人女性への興味を一層高めました。古賀人形の『西洋婦人』も、慶賀が描いたティツィアとヨハネスの姿を模したものの一つだといいます。
 





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