● 出島の災難

長崎は比較的地震災害が少ない地域である――近年の統計だけで判断するのは、少し早計かもしれません。

※1安政の大火と呼ばれる幕末期の出島の大火に遭ったオランダ海軍中尉ウィヘルスは『日本回想記』でこう指摘しています。

  日本人の火災の原因は、ひとつは囲炉裏の火の不始末、そしてもうひとつは頻繁に起こる地震である。屋根の木材が囲炉裏や火鉢に落ち、火事になるのだ。

地震、暴風雨、火災……。出島を襲った災害についても、商館長日記には事細かに記されています。興味深いのは、文化5年(1808)3月5日、長崎に地震が起こったときの商館長ドゥーフの記録です。

  「正午と午後四時に地震を感じた」

そして、次のようにあります。

  「不思議なことが起こった」

ドゥーフの観察による「不思議なこと」とは、次のようなことです。

長崎湾内の水が地震後、5分もしないうちに、4.5m程引き、同様の速さでもとの高さに戻りました。そして再び同じ速さで引き、今度はゆっくり戻っていったというのです。湾内に停泊している船は、風もないのに、この大きな波のために大きく揺れた……明らかに、これは津波のことです。

文化7年(1810)6月、出島は激しい暴風雨によりあちこちで浸水。30〜45cmもの水がたまり、出島を取り囲む塀が次々に崩れ落ちました。長崎の町中も相当な被害で、川沿いの家3、40件、まるごと流され、石橋を含む3つの橋も流失。長崎港には、たちまち流されてきた家具や材木などでいっぱいに。そして、風向きからそれらは出島に押し寄せたといいます。こういった雨風による被害は、日常茶飯事で、そのたびに商館長は建物の修理のことで頭を悩ませました。

そして、一度起こるとひとたまりもないのが火事。寛政10年(1798)の多くの建物を失った出島の大火はよく知られるところです。当時の商館長はドゥーフで、彼の住居であるカピタン部屋も焼失しましたが、なかなか再建されず、完成まで10年の月日を要しました。
※出島370年物語 vol.2「カピタン部屋の移り変わり」参照

直接出島で起こった火事ではなくても、風向きしだいでは出島にも火の粉がかかります。火事の際、ドゥーフはこれまでの経験をふまえて、様々な準備をしました。いざというときに持ち出す朱印状と重要書類入りのクスノキの箱、銀細工、将軍から贈られた衣類50着……。また、いざというときは、奉行所に願い出て水門を開き、小船に乗って海へ逃げる計画……。そして、結局のところ、火が出てからでは遅すぎると、火の用心を徹底させました。

一、 毎晩カピタン部屋に集まる習慣になっているが、そのとき、各人の暖炉の火を消し、暖炉の扉を閉めること。
二、 鉢を使っている場合は、火を消すこと。外出中に猫がもぐり込んで火事になることのないよう、擂り鉢をかぶせて蓋をすること
三、 留守中に風が吹き込んで火が吹き散らされないよう窓をしっかり閉めること。
四、 夜、カピタン部屋から戻ったとき、暖炉や火鉢に火をつけてはいけない。帰ったらすぐ寝る習慣にすればよいのだから。
五、 女たちは、夜、部屋に帰って煙草をすってはならない。煙草盆や煙草用の火入れに火をいれてはならないし、煙草にランプで火をつけてもいけない。
六、 ………
 
ほか、火の用心注意事項は、13項目まで続く。

カピタンの気苦労は計り知れないものだと、つくづく同情させられますね。 結局、寛政の大火後は、奉行の指示で出島中央の道幅は約2mも広がりました。 当時の日本の家屋はまだまだ燃えやすいものだということを、商館長はもちろん理解していたのでしょうが、商館員達はどうだったのでしょうか? 厳しく取り締まられた13もの規則が、その後も守られ続けたか否かは不明ですが、出島は幕末期に再び、安政の大火に見舞われてしまうのでした。

『長崎諸役場絵図』所収出島図
『長崎諸役場絵図』所収出島図/長崎歴史文化博物館所蔵
出島施設の歴史や、家賃銀のことを記した平面図。
寛政10年 (1798)の大火で焼失した部分には赤線が引かれている。
 
★出島ワールド人物伝★
寛政10年(1798)の出島の大火の際、奉行所や、幕府が命じた長崎警備にあたるため市中に屋敷を構える諸藩の役人達は騎馬にて出仕。火消道具を携え、火消しを率いた大勢の役人達が大勢駆けつけました。その中には、黒田八虎(はっこ)の一人として知られる黒田美作守(くろだみまさかのかみ/三左衛門1571〜1656)の姿も……。美作は養子でしたが、黒田長政と兄弟同様に育てられました。寛永18年(1641)、幕府は黒田藩に参勤交代を免じ、長崎警備御番を命じ、翌年からは佐賀鍋島藩との交代で藩士約1100名を派遣。この役回りは、幕末まで続きました。さて、寛政の出島の大火のそのとき、美作は、沖の番所(現在の伊王島)から大型の帆を張った速度の早い「飛船」と呼ばれる小型船で駆けつけ、鉄砲20丁、太刀持など100人を従えていたといいます。通常、藩主が長崎入りするのは、オランダ船が来航する4月と帰帆する9月の2回。この出島の大火が起こったのは、4月21日(寛永10年3月6日)、夜中の12時過ぎ。美作守もきっと来航に合わせ来崎していたのでしょう。出島の災難に、諸藩も総出で立ち向かう、それも長崎警備のお役目でした。ちなみに美作守という人、武功も多かったのですが、風流人であり、花鳥風月を愛して歌を詠み、自ら絵も描き、有名な黒田長政騎馬図や『黒田長政記』を著しました。明暦2年11月13日、86歳没。藩主と区別して美奈木黒田と呼ばれています。

※1安政の大火/1859年3月7〜8日(安政6年2月3〜4日)に起こった大火災。島の東南部の建物が焼失した。





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