● カピタン部屋の移り変わり

キリスト教の布教を禁止するために、ポルトガル人の収容を目的に築造された出島は、徳川幕府の命であることから、出島の門や塀、橋などは幕府の費用で造られました。しかし、それ以外の土地、建物を造ったのは“出島町人”と呼ばれる25人の長崎を代表する豪商達。はっきりとした築造費はわかっていませんが、彼らは鎖国体制の中、ポルトガル貿易を有効に利用して利益をあげようと考えていたようです。つまり出島をポルトガル人たちに賃貸し、その賃貸料で出島の築造費を取り戻そうとした訳。しかし、無人島になっては、町人達の思惑がはずれてしまいます。そこで彼らは、現代でいうところの“オランダ商館(企業)誘致”を幕府に嘆願し、その願いが叶ったのでした。

さて、それら出島町人によって建てられた建物も、その後218年もの長いオランダ貿易の期間に何度も建て替えられます。現在、復元され、見学できる※1カピタン部屋の変遷に迫ってみましょう。

元禄時代(17世紀末〜18世紀初頭)の『出島絵巻』に描かれたカピタン部屋には、2階で食事をしたり音楽を演奏したりしています。椅子とテーブルでの生活様式は、一見洋風に見えますが室内は畳敷きだったようです。また、外壁には下見(したみ)と呼ばれる板張りが施され、戸袋がついたまったくの日本建築でした。出島の建物は主に、1階は倉庫、2階は住居という構造。限られた敷地に数多くの倉庫を建てるための知恵だったのかもしれませんね。同じく元禄時代の『阿蘭陀屋敷之図』のカピタン部屋には、海に面したところにはバルコニーが描かれています。





『司馬江漢全集 第1巻』 国会国立図書館所蔵

1784年(天明4年)に建て替えられたカピタン部屋は、様々な記録が残り、その様子をうかがい知ることができます。『かぴたん部屋建替絵図』は、平面の設計図で、遊女部屋や遊女竃所(台所)があり、遊女がカピタン部屋で暮らしていたことがわかります。また、江戸時代中期から後期に活躍した文人画家 春木南湖(はるきなんこ)は、1788年(天明8年)に出島を訪れ、『西遊日簿(さいゆうにちぼ)』に『カピタン部屋玄関之図』とともにカピタン部屋の様子を描き出しています。そこに描かれたカピタン部屋の玄関は、窓はビードロ、外灯の柱はモヨギ、階段はチャン塗(ペンキ塗)、ヨーロッパの建築資材が用いられたものでした。同時期に訪れた★司馬江漢(しばこうかん)のスケッチには、天井にはシャンデリアが輝き、カーテンが引かれ、ガラス窓が施されたまったくの西洋館でした。

1798年4月3日(寛政10年3月6日)、出島に今までにない、大火が発生し西側半分を焼失。カピタン部屋も焼けてしまいます。他の建物は間もなく復旧しましたが、カピタン部屋は、オランダ商館の費用で建てることになっていたため、商館の財政難のため10年ほど再建されることはありませんでした。1808年(文化5年)の春、時の商館長ヘンドリック・ドゥーフによって建てられた新しいカピタン部屋は翌年1月に完成。この時ドゥーフは、遊女瓜生野(うりうの)と恋仲にあり、二人の間には、道富丈吉が前年10月に誕生したばかりでした。カピタン部屋での親子三人の暮らしは、丈吉が7歳になるまで続きました。

現在、復原されているカピタン部屋の外観の大きな特徴は、2階入口に左右から昇れる三角型の階段。この階段が取り付けられていたのは、再建された当初からで、ちょうど、シーボルトやドゥーフの後任である商館長ブロンホフが滞在した時代のものです。この頃のカピタン部屋をシーボルトのお抱え絵師 川原慶賀が多数描いていますが、最も有名なオランダ人、遊女らの宴会の様子を描いた『長崎出島館内之図』には、ガラス窓、シャンデリア、カーテン、椅子とテーブルが配されているのは変わりませんが、鴨居や畳敷きは何故だか日本風に逆戻りしています。

最後の建て替え時期と推測されているのは、1842年〜45年(天保13年〜弘化2年)の間、商館長を務めたビクの頃。彼の遺品に主要建物の平面図があり、また、天保13年(1842)に慶賀が描いた『蘭館絵巻』には、以前とは違う白壁の西洋館が描かれているのです。

はじめは日本人大工による洋風を取り入れた日本家屋であったカピタン部屋は、長い歳月を経て、幕末にはよりヨーロッパ風の豪華な建物へと変貌を遂げました。
 
 
★出島ワールド人物伝★
絵師で蘭学者の司馬江漢は、1788年(天明8年)42歳のとき、江戸を発ち長崎への旅に出ます。そのときの旅の記録をまとめ、刊行したのが『西遊旅譚(さいゆうりょたん)』。ここに収められた江漢が描いた『出島図』と『カピタン部屋内部』は、とても興味深いものです。『出島図』には、2つのカピタン部屋が描かれていますが、ひとつは従来のカピタン部屋で、もうひとつは薬園と記された庭園の東の建物、新任カピタンの居宅でした。また、『カピタン部屋内部』は、並べられた4脚の椅子、本棚、テーブルクロスが掛けられた机、その上に載せられた水差しとワイングラス、ガラス戸、カーテン、ガラスをはめた額が数十点壁に掛けられ、その絵は人物や山水花鳥で今にも動き出しそうに巧妙にえがかれている…と説明しています。『出島図』については、資料を見て描いたものに江漢の好みが加えられたものとも推測されていますが、『カピタン部屋内部』は、西洋画の影響を受けた貴重なスケッチといわれています。カピタン部屋を通して、出島の変遷が見えてくるようなとても貴重な資料です。
 

※1カピタン部屋/商館長の居宅。出島のなかで一番大きな建物で、出島西側の中心部分に位置し、その周りに商館員たちの住まいがあった。





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