● 出島の事件簿

小さな築島、出島オランダ商館実動のながーい年月の間には、ささいな事件から珍事件、国を揺るがす大事件まで様々な事件が繰り広げられました。遊女に失恋して失踪する商館医、アルコール依存が原因で死亡した商館員、航海の途中、船上で死亡した商館長。大火で焼失する商館長住宅などなど……何せ数千人の人が入れ替わり立ち代わり暮らしたのですから、その間、いろんなことがあるのも不思議ではありませんよね。

また、彼らは狭い出島の中に囲われてはいましたが、外部の人間、つまり長崎人との関わる機会もあり、それによって起こる事件も多々ありました。

少なくともオランダ商館に働く底辺の民衆は、桟橋からまたは桟橋への商品の荷揚げまたは荷下ろしの際に、とくに砂糖や銅を、オランダ人からくすねることを罪とは思っていないのである。

これは、ツュンベリーの著書に記された記述で、武士や学者、裕福な町人達ではなく、その下層にある出島で荷積み荷下ろしの作業を行なう「日雇い」達の行ないのことを示しています。出島での交易の様子は、※出島370年物語 vol.7「出島の交易エトセトラ」参照でご紹介しましたが、その際、出島に直接出入りできる日本人には、奉行所の役人や阿蘭陀通詞、門番などの役人のほか、日雇い労働者達が数多くいました。

ふんどし一丁に前掛けをした日雇い達の報酬は、日当一匁程度の薄給。奉行所は、彼らの収入を補うものとして、“自然にこぼれる”こぼれ物を黙認していましたが、自然にこぼれる物と故意にこぼす物の区別の監視を徹底できず、商品の目減りに困ったオランダ人達が、その監視をしていたようです。しかし、俵に大きな穴をあけてこぼしたり、箱の板をずらしてこぼれ物を次々に作りだしたり……しまいには荷物に手を入れとり出してみたりと、日雇いの悪習はエスカレート。

日雇い達が堂々と盗みをするので、荷物を警備するオランダ人と日雇い達の間で騒動が起こりました。騒動は出島だけではなく沖合の本船にまで及び数日の間荷役ができないほどでした。

と、たまり兼ねたオランダ側が、地役人に、奉行所にと報告書を提出。しかし……

まったくいたらないオランダ人、特に日本にはじめてきた者達は手荒な取り締まりをやりすぎないようにと厳しく注意しておりましたが、その意味をよく理解しておりませんでした。今後このようなことがないように厳しく注意したいと思います。

と、奉行所への謝罪の一文も加えられていました。これは、自らの非も認めることで、奉行所の体面を保たせ、暗に日雇いの取り締まりを促す作戦。そこで奉行所が出した通達は……。

オランダ船の荷役に関わる日雇い達は日雇い頭から末々の者にいたるまでその町乙名はよく吟味し、少しでも怪しいところがある者は荷役に出さないように。もし少しでも日雇い達に不法な行為があったら当人だけでなくその町の乙名組頭まで処分がおよぶことになる。オランダ人からの報告書の写しを置いておくのでよく見て、日本人の面目を失わないように十分気をつけなければならない。

当時、人柄を見極め、日雇いを選定するようなことは日本ひろしといえども長崎独自のもの。長崎人=日本人、私達の祖先は大きな役割を担っていたんですね。

『長崎諸役場絵図』所収出島図
『唐蘭館絵巻、蘭館図、倉前図』/長崎歴史文化博物館所蔵
 
★出島ワールド人物伝★
大航海時代の船旅は命がけ。現代の船旅の優雅なイメージとは程遠いものでした。唐船の守り神は「媽祖像」ですが、「リーフデ号」のエラスムス像に代表されるように、オランダ船の船首や船尾にも守り神と思われる人物像が飾られ、船員達は日々航海の安全を祈ったといわれています。しかし、当時の帆船と航海術では、願わざる事故が度々起こってしまいます。寛政10年(1798)秋、風待ちをしていた長崎湾口で暴風雨に見舞われ沈没したのが、オランダの帆船「エリザ号」。これは大事件! なにせ出島での貿易を終え、大量の銅を積んだ船だったのです。長崎奉行は地元民に引揚げ事業の志願者を募りましたが、志願者は現れません。そこへ、名乗りを上げたのが、徳山・櫛ヶ浜の実業家、村井喜右衛門(1752-1804)という男でした。当時、喜右衛門は、長崎沖にイワシ漁場を構え、干しイワシの商売に成功。櫛ヶ浜からも大勢の漁師が出稼ぎにきていました。エリザ号は船長41.4m、幅10.8m、1500tの大船で、もちろん喜右衛門には引揚げの経験はありません。しかし、式見など近隣の漁師達に呼びかけ、150艘もの小船と柱を海中に立て滑車を使用。潮の干満と風を利用し、34日を費やして見事引揚げを成功させたのでした。作業に従事した人数はなんと13000人。エリザ号は無事修理を終え出帆することができたといいます。
 





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