● 出島の交易エトセトラ

 ブロムホフ様
  どうか、通詞部屋で当番をしている私の御馳走のために、
  いくらかの砂糖をこのコーヒーに入れて下さい。
                                   敬具
                    尊敬せる貴下の僕 庄左衛門

上記は通詞部屋に当直や宿直をしている阿蘭陀通詞が、カピタンへ宛てて書いた短い手紙です。庄左衛門とは、代々阿蘭陀通詞を世襲する本木庄左衛門のこと。彼がオランダ語の手紙を書いて小使に持たせ走らせたのでしょう。文の内容からこの小使は、コーヒーが入ったカップを手に通詞部屋とカピタン部屋とを往復したことが伺えます。

コーヒーと砂糖――ともに長崎出島に貿易船によってもたらせれ、日本全国に発信された嗜好品です。鎖国期に西洋へ向けて唯一開かれた窓であった出島には、ほかにも様々なモノが渡ってきました。出島で行なわれていた交易はどんなものだったのでしょうか?

まずは、オランダ船入港の様子をのぞき見てみましょう。
長崎港口に異国の船が現れます。その船がオランダや中国の貿易船なのか? あるいは他国の船なのか? 戸町御番所前の海面には、数々の警固船が舫います。さらに防備のために備えられた戸町や西泊の遠見番所の小高い丘には、弓矢や鉄砲が設えられるなど、長崎港はものものしい空気に包まれました。そんななか、合図である「旗」が合い、「検問」が済んで船の出所がわかり、一連の手続きが無事に済んでしまえば、来航船は一気に珍奇で貴重な品々を乗せ、はるばる遠い国からやって来た「宝船」へと一変。長崎港も大歓迎ムードとなり、港口の最も狭くなった「男神」と「女神」の間を通過する際には「空砲」をうって慶祝の意が表わされたといいます。

文政8年(1825)の「積荷目録」が、長崎歴史文化博物館に所蔵されています。 表題には、1 誂物(あつらえもの)リスト 2 本方荷物(もとかたにもの)リスト 3 脇荷物とありますが、それらの分類はどんなものだったのでしょうか?

1の誂物とは、将軍家をはじめとする幕閣や長崎奉行、長崎の地役人である町年寄(まちどしより)らの注文品のこと。この年の将軍の「御用御誂」の品は以下のようなものでした。

当年の「カルパ(カルパ)暦」 一冊
辞書  三部
金入本国織 三〇エル(織物)
銀入本国織 三〇エル(織物)
孔雀 六羽
サフラン 二斤
竜脳 五〇斤

当時の将軍は第11代徳川家斉(いえなり)。「カルパ暦」は、「アルマナック」というバタビア総督府管内の毎年の「年鑑」、辞書は独・蘭辞典、仏・葡辞典、蘭・西辞典の三部なのですが、家斉が、そんなに語学学習に熱心だったという話はないため、おそらくこれは幕府天文方や蛮書和解御用と呼ばれる蘭学者の手にまわされていたようです。一方、江戸詰めの長崎奉行と現地詰めの長崎奉行、どちらも40品目程の蛮品を購入しています。二人の長崎奉行は、何故か毎年、船が着くたびに遠眼鏡に鼻眼鏡、袂時計に掛時計などを決まって購入。はたまた、まるで蘭方医に変身でもしたのかというように、薬品や医療機具まで毎年購入しています。また、町年寄などの地役人も多彩な蛮品を買い続け、豪勢を誇っていました。これらが流入ルートのひとつだったことは言うまでもありません。

次に2の本方荷物ですが、実はこれがオランダ商館の会計帳簿に計上される主要輸入品。一番船と二番船ともに同数、同量積載し、航海中いつ何時、一艘失うことがあっても一定商品を確保する工夫がなされていました。積載品は東南アジアからの更紗(さらさ)や縞もの、オランダ本国で織られた金糸、銀糸入りの織物など、輸入品の主体は織物でした。また、帆船のバランスを計るためのバラストと呼ばれる底荷には、日本に高値で売り込める優良輸入品「白砂糖」。 長崎カステラを筆頭に長崎街道沿いに生まれた砂糖菓子、ひいては京や江戸の菓子の発達に大きな影響を与えました。

3の脇荷物とは、オランダ商館員に販売が許されていた品のこと。命がけの航海を経て出島入りする商館員に対するいわば特典のようなものでした。荷揚げされた脇荷物は、出島の十四の蔵に保管されましたが、そのうちたくさんの蔵に入っているNo.3はすべて「薬物商品」。なかでもNo.1は「サフラン」ですべての蔵で保管。日本での売れ筋薬品だったようです。オランダ船に載って、本当に様々な品が出島に渡ってきたんですね。

一方、日本からの輸出品はというと、初期は「銀」、中期は「金」(小判)、そして鎖国の頃には、「銅」が主体でした。伊万里焼に代表されるような陶磁器や、樟脳(しょうのう)、漆の細工物、青貝細工などの雑貨も輸出されましたが、銅の額に比べると、それらはごくわずかだったといいます。
 
★出島ワールド人物伝★
弟子の川原慶賀同様、出島出入りを許されていた石崎融思(いしざきゆうし)は、主に海外貿易の輸入品を品定めする長崎奉行所直々の役人「唐目利(からめきき)」家系の由緒ある絵師でした。彼が描いた絵は、野母町脇岬の観音禅寺の本堂の天井絵に残されるなど、現在でも目にすることができます。そんな石崎融思が描いた風物に、とりわけ興味を惹く面白い一枚があります。それは蘭館図絵巻の「見物船」。その絵には、客を乗せた屋形船が二艘、長崎港の波間に浮かんでいます。これらの船、ひと呼んで“オランダ船ウォッチングクルーズ!”。目を凝らして見ると、船中には赤い毛氈が敷きつめられ、卓には豪華な食事と飲み物、ご婦人方も旦那衆も着飾って、飲み食いを楽しんだり、望遠鏡で覗き見したりと楽しそう。画才に長け長崎画壇の中心的な存在だった石崎融思さまも、そんな長崎風情を描くという仕事をなさっていたんですね。

見物船『蘭館図絵巻』/長崎歴史文化博物館所蔵





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