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コラム 長崎が舞台の小説を読んでみた

「作者はまず、この小説に登場する二人の娘をご紹介しておかねばならない。彼女たちの名はミツとキク。一つ違いの従姉妹である。名字がないのは、二人が生まれたのが幕末で、家はそれぞれ長崎に隣接する浦上村馬込郷の農家だったからだ」

 遠藤周作が昭和57年に出版した『女の一生 一部・キクの場合』の冒頭部分です。この作品と『沈黙』(1966)、『女の一生 二部・サチ子の場合』(1982)の3冊は、長崎切支丹3部作と呼ばれています。『女の一生 二部』の主人公サチ子は、一部の主要人物であるミツの孫という設定ですが、時代も登場人物も違うことから別作品として捉えられています。今回は、幕末から明治にかけて、長崎で起こった大事件「浦上四番崩れ」を、史実に沿って描いた『女の一生 一部・キクの場合』をご紹介したいと思います。

<浦上村山里の特殊な事情>

絵踏
日本二十六聖人記念館に展示されている踏絵のレプリカ。
この踏絵はスコセッシ監督の『沈黙-サイレンス-』で実際に使用されたものです。

 「長崎に隣接する浦上村馬込」とは、現在の銭座町・緑町・目覚町の一帯を指しています。この馬込郷と隣接する里・中野・本原・家野(よの)の4郷を合わせた地域が「浦上村山里」で物語前半の主な舞台です。

 主要人物のミツとキクですが、この二人性格は正反対。ミツは「アマイボー(甘ったれ)」で、1歳年上のキクは「オトコバッチョ(お転婆)」。そんな男まさりの性格が災いして、高い木から落ちそうになったおキクを、通りがかった隣村の少年清吉が助け出しました。そこに駆けつけたミツの兄市次郎は、清吉にお礼を言うどころか、「用もなかとに中野郷の者がここらへんば、うろうろ、すんな。クロの奴は俺は、好かんと」といって追い払ってしまいました。この恩知らずな態度にキクは驚き、「クロ」とは何か問いただしましたが、市次郎は「子供は知らなくていい」「本原や中野や、家野の子供には近寄ってはダメ」としか答えてくれませんでした。キクものちに知ることになりますが、クロとは「キリシタン」の隠語です。実は、馬込郷以外の浦上の村民はキリシタンだったのです。故に市次郎は清吉を嫌い、本原や中野に行ってはならないとキクを諭したのです。当時の日本に信仰の自由はなく、キリスト教を信じることは固く禁じられていました。

<キリシタンへの迫害>

 秀吉が天正15年(1587)に出した「バテレン追放令」からキリシタンへの迫害が徐々に始まり、徳川幕府が慶長19年(1614)全国に発布した「禁教令」以降は徹底したキリシタン弾圧が行われました。そんな中勃発した寛永14年(1637)の「島原の乱」は、幕府に大きな衝撃を与えることになります。「キリシタンによる反乱」と見なした幕府は、究極の策をとることになりました、ご存知「鎖国」です。厳しい弾圧を加えても尚、ポルトガル商船に同乗してやってくる宣教師たちをシャットアウトするため、ポルトガル貿易自体をやめてしまったのです。ポルトガル人の後釜は、カトリックと敵対していたプロテスタント国のオランダ人が引き継ぐことになりました。布教は一切しないと約束したからです。

 これで、外からのキリスト教流入に対しては手を打ちました。残るは、国内に残る外国人宣教師と日本人信者たちの探索です。80数人いた宣教師全員を国外追放したのですが、その内の37人がまた密かに舞い戻ってきていました。「宣教師を見つけた者に懸賞金を与える」という「高札(たかふだ)」は元和4年(1618)からすでに立てられていましたが、寛永15年(1638)からは一般信者にも懸賞金が賭けられるようになります。精神的な拷問であるとして、ヨーロッパ人の間では悪名が高かった「絵踏」も、すでに寛永3年(1626)頃から行われていました。寛永17年(1640)に井上筑後守が宗門奉行になり、キリシタン探しがさらに厳しさを増しました。2016年に放映されたスコセッシ監督の映画『沈黙-サイレンス-』でイッセー尾形さんが演じたあの知的な奉行です。毎年「宗門人別改(しゅうもんにんべつあらため)」が行われるようになり、一家の全員がどのような宗教を信仰しているかについて、檀那寺(だんなでら)に証明してもらうことが義務づけられました。出産や死者が出た場合も檀那寺への届出が必要で、埋葬には僧が立ち会うことが義務付けられました。葬儀はキリシタンにとって重要な儀式だったからです。これらが、寺が村民を監視する「寺請制度」。監視者は寺だけではなく、「五人組」という仕組みも合わせて取られました。近隣の5つの家族をひと組として、組の中にキリシタンがいないか「お互いを監視し合う」というものです。一人でもキリシタンが見つかれば、他の4家族も連帯責任を取らされるという制度。このような二重三重の監視体制が取られ、キリシタンはついに歴史の表舞台から姿を消してしまいました。

<「異宗」の信仰者であってキリシタンではない>

 『女の一生』の物語に戻りますが、市次郎の「クロの奴は俺は、好かんと」いうセリフに一つの疑問が生じます。なぜ、市次郎は奉行所に告発しないのでしょうか。キリシタンだと分かっていて通報しないのは罪です。実はこの頃、「キリシタンと薄々わかっているのに見て見ぬ振りをする」という状況が常態化していたようなのです。それも村人だけなく、取り締まる側の奉行所がそういう姿勢でした。なぜ、あれほど厳しく監視していた奉行所がこのような曖昧な態度をとったのか、それは「村請制度の維持」を優先したからだと考えられています。熊本大学文学部歴史学科准教授の安高啓明氏は著書『浦上四番崩れ』の中で次のように記しています。

 「ひそかにキリスト教は信仰されており、領主もこれをある程度認識していたことはよういに推測される。キリシタン容疑はぬぐえないものの、村請制を維持する百姓としては〝優秀〟だったことがキリシタンとしてとがめられない理由にあったとの指摘もある」
安高啓明著『浦上四番崩れ』92頁から抜粋

 安高氏によればこのような傾向は既に、文化2年(1805)天草島で5千人もの村人が検挙された「天草崩れ」に見られているとしています。押収された証拠品から明らかにキリシタンであると判断されるにも関わらず、絵踏みを行なっていることから「キリシタン」ではなく「先祖から伝わる異宗を信仰する心得違いの者たち」と結論づけて、キリシタンとしての処分をしませんでした。

<四つの「崩れ」>

マリア観音
日本二十六聖人記念館に展示されている石造りのマリア観音像(中国製)。
マリア観音の多くは明・清時代に中国で製作された「慈母観音像」で、
キリスト教とは何の関係ありませんでしたが、
信者たちはこれを聖母マリアに「置き換えて」信仰物としていました。

 『女の一生 一部・キクの場合』は「浦上四番崩れ」を描いた小説だとはじめに紹介しました。「崩れ」とは江戸期にはすでに使われていた表現で、「キリシタンの疑いで告発される」ことを意味しています。したがって浦上四番崩れとは「浦上地区の人たちが、キリシタンとして告発された四回目の事件」ということです。寛政2年(1790)に起こった「一番崩れ」、天保13年(1842)に起こった「二番崩れ」共に「キリシタンの疑いあり」と密告を受けた数十人の村民が、長崎奉行所によって捕らえられましたが、証拠不十分で釈放されています。安政3年(1856)に発生した「三番崩れ」では、浦上村キリシタンの最高責任者である惣頭(そうがしら)の吉藏が捕まりまり、次々に証拠物件が見つかります。「ハンタマルヤ(聖母マリア)」「ジゾウス(キリスト)」という名のマリヤ観音。教会儀式の行事表である「日繰書」。「ミギル」「パアロ」「ペートロ」といった吉蔵の家族の洗礼名までもが知られる事態となりました。これだけ明確な証拠があるにも関わらず最終的には「キリシタンゆかりの地であるがゆえに古来の風俗が残ってしまい異様なことが伝わっているだけ」という判断が下され、天草崩れと同じ結論に達したのです。長崎奉行所から「キリシタンではなく異宗という結論になりました」という報告書が幕府に提出されました。最終的には老中の判断になるのですが、その返事を待っている最中発生したのが「浦上四番崩れ」でした。

 浦上四番崩れは、これまでの三つの崩れのような「異宗」扱いにはなりませんでした。「キリシタン」として数千人規模の村民が捕らえられたのです。なぜ今回に限ってキリシタンと認定されてしまったのでしょうか。それは村民が自ら「私はキリシタンです」と宣言してしまったからです。この絶対に言ってはならない事実を明かしてしまった大きなきっかけをつくったのは、今年世界文化遺産に登録された「大浦天主堂」の建設でした。なぜ、天主堂がキリシタン宣言につながるのか、ことの次第はぜひ小説をお読みください。

<遠藤周作と長崎>

 『沈黙』をはじめ、多くの長崎切支丹をテーマにした小説や随筆を書いた遠藤周作ですが、最初から長崎に興味を持っていたわけではありません。「見知らぬ街をふらりと訪れるのが好き」だった遠藤がたまたま来てみたところから長崎との関係がはじまります。この時点では、長崎の歴史も切支丹もほとんど何も知らなかったそうです。遠藤は観光タクシーで長崎を巡り、大浦天主堂まで来ましたが、あまりの修学旅行生の多さにうんざりして天主堂へは行かず、側にある洋館を利用した資料館にフラッと入りました。ここでキリストが描かれた真鍮を木枠にはめた「踏絵」と出会うことになります。遠藤が踏絵を見たのは初めてではなかったにも関わらず目を奪われたのは、踏絵の外枠の木に「黒い足指の痕(あと)らしいものがあったため」でした。この足痕のイメージは、東京に戻ってからも事あるごとに思い出されたそうです。踏まなかった「強い人間」と、踏んだ「弱い人間」。踏まなかった殉教者の記録はたくさん残っていますが、踏んで棄教(ききょう)した弱い人たちの記録はほとんど残っていません。遠藤は小説家として、この弱き者たちを見捨てることができませんでした。「彼等が転んだあとも、ひたすら歪んだ指をあわせ、言葉にならぬ祈りを唱えたとすれば、私の?にも泪が流れるのである」と書き記しています。こうした弱者への思いが『沈黙』ら長崎切支丹3部作を生み出すことになったのです。

『女の一生 一部・キクの場合』ゆかりの場所

聖徳寺(長崎市銭座町)

浦上村の檀那寺だった聖徳寺(長崎市銭座町)
浦上天主堂

浦上村を管理していた庄屋の屋敷跡に建てられた浦上天主堂(本尾町)
大浦天主堂

遠藤周作が好んで歩いた大浦天主堂(南山手町)に沿った坂道

【参考文献】
『浦上四番崩れ』片岡弥吉(筑摩書房/1963)
『浦上切支丹史』浦川和三郎(国書刊行会/1973)
『切支丹の里』遠藤周作(中公文庫/1974)
『沈黙』遠藤周作(新潮文庫/1981)
『女の一生 二部・サチ子の場合』遠藤周作(朝日新聞社/1982)
『長崎町づくし』嘉村国男(長崎文献社/1986)
『遠藤周作と歩く「長崎巡礼」』遠藤周作・芸術新潮編集部編(新潮社/2006)
『浦上四番崩れ』安高啓明(長崎文献社/2016)