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コラム 長崎が舞台の小説を読んでみた

「小通詞、浦恒助は後部甲板の手すりにもたれて、ぼんやりと空を仰いでいた」

多岐川恭(たきがわきょう)が昭和36年(1961)に発表した『異郷の帆』は、こんな書き出しではじまります。浦が乗船しているのはワーレンブルグ号というオランダの貿易船。1週間前に長崎に到着して、今日は積荷を降ろす最終日です。浦はオランダ人たちに密貿易などの不正がないよう、監視に来ているのですが、それにしては緊張感のない勤務態度。どうやら浦は「小通詞(こつうじ)」という自分の身の上に満足していないようです。

<通詞のお仕事>

 「阿蘭陀(おらんだ)通詞」は通訳者ですので、第一の仕事は日本人とオランダ人の間に入って意思の伝達をすることですが、オランダ船が入港した際の臨検(りんけん)や、乗船人や、積荷の確認などの貿易の事務作業も行いました。『異郷の帆』では描かれていませんが、船が来た時の通詞の重要任務の一つに「風説書」の作成があります。オランダ船でやってきた新商館長と船長から海外で見聞きした最新の情報を聞き取り、書面にまとめる作業です。鎖国していた日本にとって、風説書は大変重要な情報源だったのです。通詞たちは直ちに、新旧の商館長、船長、ヘトル(次席商館長)らと翻訳に取り組み書面を整えます。完成した風説書は清書されて、翌日中に宿次便(しゅくつぎびん)で江戸の老中宛に送られました。

<通詞には大小だけではなく上下もある?>

 主人公の浦の職務は「小通詞(こつうじ)」です。小通詞があるからには「大通詞(おおつうじ)」もあります。大通詞と小通詞だと、字面からその関係性が読み取れますね。通詞は長崎奉行所に属する役人で、そのトップは通詞目附(つうじめつけ)。その下に大通詞、小通詞、稽古通詞(けいこつうじ)と続き、これらの通詞たちのことを総称して「上通詞」と呼び、元禄8年の記録では総勢50名いたといいます。

 さて、「上通詞」がいるということは当然「下通詞」もいました。「内通詞(ないつうじ)」がそれです。上下通詞の大きな違いは、上通詞は役人(公務員)で、下通詞は民間人(自営業者)だということです。上通詞は奉行所から給料をもらいますが、下通詞はオランダ人からもらいます。もう一つ、上通詞は「オランダ東インド会社」の積荷を取り扱いますが、下通詞はオランダ人個人が持ち込んだ「脇荷(わきに)」と呼ばれる積荷を取り扱います。その際の仲介手数料が下通詞の利益になるのです。下通詞は出世してもだいたい「稽古通詞」くらいでしたが、例外もありました。『異郷の帆』にも登場する商館医、ケンペル(「ケンペルの『日本誌』を読んでみた」にリンク)に雇われた内通詞の今村源右衛門英夫は、ケンペルから指導を受けて高度なオランダ語力を身につけたことで、大通詞にまで上り詰めました。

<乙名のお仕事>

 物語の重要人物に「乙名(おとな)」の吉田儀右衛門がいます。乙名というのはいわば「町長」のようなもので、各町の責任者。長崎の77の町にはそれぞれ乙名がいました。これら「惣町乙名」とは別に、「出島乙名」と「唐人屋敷乙名」もいました。出島や唐人屋敷を管理する特別職です。出島は長崎奉行所の所管で、長崎奉行の命を受けた「町年寄」が貿易の業務を任されています。しかし実際は、オランダ人との交渉などに町年寄は直接タッチしおらず、実務は部下である出島乙名が担っていました。オランダ船が入港して、また出航するまでの一切の管理は出島乙名の仕事だったのです。非常に責任の重い仕事ですからその分、給料も高く、惣町乙名の5倍もあったといいます。儀右衛門はその出島乙名として、実質的な責任者を務めていました。

<オランダ屋敷殺人事件>

異郷の帆1964
昭和39年出版の『異郷の帆』

 昭和36年、新潮社から出版された『異郷の帆』は、元禄期の長崎を舞台にした歴史小説の名作で、現在に至るまで各出版社から幾度も再版されています。昭和39年に桃源社から再版された『異郷の帆』には「オランダ屋敷殺人事件」という副題が付けられていました。そうです、この作品は「歴史ミステリー小説」なのです。陸地から出島への渡り口は表門橋1カ所しかなく、キリシタン対策のために出入りは厳しく制限されていました。オランダ人は基本的に外出できませんし、日本人も限られた者しか入場できません。見方を変えれば出島は「密室」です。多岐川は、この場所の特殊性に創作意欲を刺激されたといいます。さらにもう一つ、この作品を書いた動機について「江戸時代の異邦人に興味を覚えた」とも語っています。

 出島には海外の珍しい品々が入ってきました。このような場所では、どうしても「密貿易」という問題が出てきます。貿易してもよい量は決まっているのに、それを越える品物を密かに持ち込んで、幕府に隠れて勝手な値段で貿易行為を行う、それが密貿易です。『異郷の帆』は、文化がまったく違う日本人と異邦人が同居する出島という密室で、密貿易が絡んでいると思われる連続殺人事件が起こる歴史推理小説。元禄期のエキゾチックな長崎を体感しながら、犯人を推理してみてはどうでしょうか。

<多岐川恭と長崎>

多岐川の随筆集『兵隊・青春・女』

 作者の多岐川恭(たきがわきょう)を紹介します。大正9年福岡県八幡市生まれ、東京帝国大学経済学部を卒業して上京、横浜正金銀行(現東京銀行)に勤めました。銀行を退職後、北九州市にある毎日新聞西部本社で新聞記者をしていた昭和28年、白家太郎名義で小説賞に応募。「みかん山」が佳作入選して作家デビューを果たしました。筆名を多岐川恭に改名した昭和33年、「濡れた心」で江戸川乱歩賞、翌年「落ちる」で直木賞を受賞。以降、上京して作家活動に専念しました。

 実は多岐川には、長崎を舞台にした小説がもう1作あります。昭和62年に講談社から出版された『長崎で消えた女』です。この作品は渡瀬恒彦さん主演でテレビドラマ化もされました。有名な場所を巡るいわゆるトラベルミステリーかと思いきや、観光地ではない八幡町や伊勢町、鍛冶屋町、金屋町で物語が繰り広げられていて驚きました。出島オランダ商館の営みを正確に描写した『異郷の帆』といい、土地勘のある『長崎で消えた女』といい、多岐川はなぜこんなに長崎を知っているのでしょうか。気になって昭和37年に七曜社から発表された随筆集『兵隊・青春・女』を読んでみたところ、そのヒントを見つけることができました。多岐川は長崎で「勤務」していた時期があったのです。

<多岐川恭も長崎で通詞をしていた?>

 昭和19年7月、太平洋戦争の真っ只中、東京大学に在学中の多岐川は、夏に徴兵されて大村の兵営(へいえい)に召集され、冬からは捕虜収容所に事務要員として勤務することになりました。「長崎県のSという炭鉱町に新設された俘虜(ほりょ)収容所勤務を命ぜられた」とイニシャルで書いていますが、これは北松浦郡江迎町の潜龍(せんりゅう)炭鉱の鉱員用社宅を利用して、昭和20年1月に新設された「福岡捕虜収容所第24分所」だと考えられます。多岐川がここで果した任務はなんと「通訳」でした。現役の東大生ということもあっての抜擢だったのかもしれません。捕虜のほとんどはオーストラリア兵だったといいますが、その通訳ぶりはどうだったのでしょう。『兵隊・青春・女』で次のように記しています。

 「所長が訓示するのを通訳したりしたが、私は英会話ができるわけではないので、つかえつかえ、半ばやけっぱちになりながら、ブロークンをふり回した。浮かぬ顔をした捕虜たちは、ポカンとして私を見ている。通訳した言葉の半分以上はわからなかったろう」『兵隊・青春・女』25頁から抜粋

 多岐川は「通訳が苦手な通訳」だったようです。そういえば『異郷の帆』の主役である浦もそうでした。出島で最初の殺人事件が起きて、奉行所から駆けつけた調役の伊丹甚右衛門がオランダ人たちの取り調べを行う場面で浦は「通詞は、わたくしより西山のほうが、双方の意を通じるにはよいと存じますが。わたくしは未熟で‥」と腰が引けた発言をし、さらに心の中で「言語の通訳は困難なばかりでなく嫌な仕事だった。日本人もオランダ人も通詞が正確に意味を伝えることを当然と思い、まごつけば腹を立てた」とボヤいています。このシーンは、長崎の収容所での自身の体験を思い出して書いたのかもしれません。『兵隊・青春・女』には他にも、捕虜収容所内の人間関係や生活環境、食料、医療などについてうかがい知ることができる貴重なエピソードが記されています。

<異郷の帆を歩く>

1オランダ出島商館
ここで最初の殺人事件が発生します
2乙名部屋
吉田儀右衛門がいた部屋です
3御花畑跡
お幸とピーテルが話していた御花畑跡

【参考文献】
『兵隊・青春・女』多岐川恭(七曜社/1962)
『異郷の帆』多岐川恭(青樹社/1977)に掲載の安間隆次さんの解説
『煉瓦の壁~長崎捕虜収容所と原爆のドキュメント』田島治太夫・井上俊治(徳間書店/1980)
『長崎で消えた女』多岐川恭(講談社/1987)
『長崎俘虜収容所』ヒュー・クラーク(長崎文献社/1988)
『異郷の帆』多岐川恭(青樹社/1990)に掲載の山川譲さんの解説
『江戸川乱歩賞全集2』仁木悦子・多岐川恭(講談社文庫/1998)に掲載の宮部みゆきさんの解説
『長崎地役人総覧』籏先好紀(長崎文献社/2012)

【参考ホームページ】
POW研究会 http://www.powresearch.jp/jp/about/index.html