去(い)んぬる頃、日本長崎の「さんた・るちあ」と申す「えれけしあ」(寺院)に、「ろおれんぞ」と申すこの国の少年がござった。
芥川龍之介が大正7年(1918)に発表した『奉教人の死』は、こういう書き出しで始まります。「奉教人」とは聞き慣れない言葉ですが、近世の日本では「キリスト教の信者」をこう呼んでいました。したがって、題名を現在の言葉に言い換えると「キリスト教徒の死」になります。タイトルからも分かる通り、キリスト教に関する内容を持った作品ですが、実は芥川は同じテーマをたくさん書いており、研究者の間では「切支丹物」と呼ばれ芥川研究の対象になっています。曺紗玉(チョサオク)の著作『芥川龍之介とキリスト教』によると、166編ある芥川の発表作品のうち、1割強が切支丹物というのですから驚きです。クリスチャンではない芥川が、どうしてこれほど切支丹物を書いたのか、芥川本人は『ある鞭』の中でキリスト教を次のように述べています。
「僕は年少の時、硝子画の窓や振り香炉やコンタスのために基督(キリスト)教を愛した。その後僕の心を捉えたものは聖人や福者の伝記だった。僕は彼らの捨命の事蹟に心理的或いは戯曲的興味を感じ、その為に又基督教を愛した。即ち僕は基督教を愛しながら、基督教的信仰には徹頭徹尾冷淡だった。いつも基督教の芸術的荘厳を道具にしていた。即ち僕は基督教を軽んずる為に返って基督教を愛したのだった」『ある鞭』から抜粋
芥川は、少年時代からキリスト教に興味を持っていました。ステンドグラスやコンタス(ロザリオ)がかもし出す「エキゾチック」な雰囲気に魅せられていたようです。「その後」というのは恐らく高校生くらいだと思われますが、この頃から聖人や福者の伝記の中で語られる「殉教」に興味の対象が移っていったようです。しかしながら、その興味はあくまで聖書の持つ「物語性」であり、キリスト教の本質である「信仰」に対しては距離を持って「徹頭徹尾冷淡」に接したとも述べています。ところが、冷淡であればあるほど「返って基督教を愛した」ともあり、キリスト教に対して複雑な感情を持っていたことが伺えます。では、そんな芥川が書いた『奉教人の死』はどのような物語だったのでしょうか。
この小説も面白さは、何と言ってもエンディングで明かされる「2つのサプライズ」にありますので、ここではあらすじを簡単にご紹介するだけにしたいと思います。
物語の時代設定については明確には記されていません。ただ「さんた・るちあ」という教会において日常的にミサが行われており、キリシタンが取り締まられているような雰囲気もありませんので、キリシタンへの厳しい迫害がはじまる以前だと考えられます。新名規明(にいなのりあき)氏は『芥川龍之介の長崎』の中で、長崎が「日本の小ローマ」といわれ、キリシタンが栄えていた文禄慶長の頃(1592年以後)の話ではないか、と想定しています。
主な登場人物は日本人の美少年「ろおれんぞ」と、元武士のイルマン(司祭の補佐をする修士)「しめおん」。しめおんは、ろおれんぞを弟のように可愛がっていましたが、信仰深いと思っていたろおれんぞが、町の傘張りの娘を身ごもらせたことを知り、怒りのあまり殴り倒します。ろおれんぞは教会から破門され、町外れで浮浪者のような生活をすることに。それから1年経ったある日の夜、長崎の町は大火事になり、傘張り娘の家も火に包まれました。駆けつけたしめおんが、火の中に1人残された子どもを助けようと試みますが、火が激しくてどうにもなりません。誰もが諦めかけたその時、ろおれんぞが現れて、まっしぐらに火の中へ飛び込んでいきました……。この後、思いもしない結末が待ち受けています。
この作品は、物語が書かれた「1の章」と、あとがきが書かれた「2の章」で構成されています。2の章によると、この物語は長崎耶蘇会が出版した「れげんだ・おうれあ」下巻第2章に書かれた実話を、多少の文飾を加えて発表した作品であると芥川が自ら解説しています。当然、読者は史実として驚きながら読み入ったことでしょう。「れげんだ・おうれあ」を譲ってほしいと芥川のところへ現金が入った手紙が届いたというエピソードも残っています。ところが実際は、芥川が創作した架空の本であり「れげんだ・おうれあ」などという書物は存在しません。まことしやかに書かれている「あとがき」も物語の一部だったのです。
長崎を舞台にした『奉教人の死』ですが、この小説が書かれた時点では、芥川はまだ長崎に1度も来たことはありませんでした。初来崎は『奉教人の死』を三田文学に発表した翌年、大正8年(1919)5月のことです。この年は芥川にとって「変革」の年でした。というのは、東京帝国大学の英文科を卒業して以来、「海軍機関学校教官」と「作家」の2足のわらじを履いていた芥川が、小説1本で生きて行いくことを選択した年だからです。大阪毎日新聞社に出勤の義務を負わない社員として就職。給料をもらいながら、年に何本かの小説を書く新聞社専属の作家となりました。この時、芥川と一緒に入社した作家がもう1人います。友人の菊池寛です。「真珠夫人」などの作品でも知られる作家ですが、大正12年(1923)に「文藝春秋」を創刊して、芥川の死後「芥川賞」を創設した人物でもあります。芥川は、菊池と一緒に初めて長崎を旅行しました。菊池はこの旅行を「長崎を見たかったのでもなければ、何をするという目的は少しもなかった」と言っていますから、恐らくは「切支丹」に興味を抱いていた芥川が、憧れの長崎旅行に菊池を誘った、ということだったのでしょう。
宿泊先は銅座町にある「永見徳太郎」の邸宅。永見家は長崎の御朱印貿易にも関わっていた江戸時代から続く名家で、永見は当時、倉庫業を営んでいました。芸術に造詣(ぞうけい)が深かった永見は、長崎を訪れる文化人たちを宿泊させたり、ご馳走したりともてなしていた長崎随一の文化人です。1週間ほどの滞在でしたが、芥川にとって大きな出会いがありました。その人物とは、長崎県立病院の精神科部長をしていた斎藤茂吉です。茂吉の第一詩集『赤光』を愛読していた芥川は、勤務先の病院まで茂吉を訪ねて行きました。この時は、茂吉が仕事中であまり話せなかったようですが、こののち親交は生涯にわたって続きました。
芥川の2度目の来崎は、3年後の大正11年(1922)の5月10日で、今回は20日間の長期滞在になりました。宿は本五島町(現五島町)にあった花廼屋(はなのや)旅館。この宿を手配したのは、旅館の近所に住んでいた渡辺庫輔(わたなべくらすけ)でした。渡辺は長崎学の祖、古賀十二郎に長崎史を学び、自らも長崎の郷土史家として名をなした人物です。後に文筆家を目指していた渡辺は芥川に師事して大正11年9月に上京し、門人になりました。
長崎の滞在記録「長崎日録」によると、5月12日、骨董品が好きな芥川は渡辺と一緒に寺町の古道具屋を見て回っていますが、掘り出し物はなく、「如何(いかが)はしき逸雲鉄翁(いつうんてつおう)あるのみ」と嘆いています(逸雲とは木下逸雲のこと。鉄翁とは日高鉄翁のこと。いずれも長崎の著名な南画家)。そしてその数日後、この芥川・渡辺コンビはとんでもないことをしでかしました。長崎日録には次のように記されています。
「五月十六日与茂平(渡辺庫輔)と大音寺、清水寺を見る。今日天晴、遙かに鯨凧の飛揚するあり。帰途まりあ観音一体を得、古色頗る愛すべし」
芥川は寺々を見た帰りに「マリア観音像」を手に入れたわけですが、入手方法に問題がありました。芥川と親しかった作家の宇野浩二が長崎に旅行した際、渡辺にマリア観音像入手の顛末を聞いたところ、「あの時、芥川さんが、あの観音さんを私に手早く渡しながら『クラスケ、これを……』と云って、浴衣をきていた私のふところに捩(ね)じこまれたのです…」と答えたといいます。展示されていたのか、販売されていたのかは定かではありませんが、とにかく黙って持ち出したのです。芥川は、生涯このマリア観音を書斎に飾って大事にしていました。自宅を訪れた友人に「シッケイしてきたんだよ」と自慢げに見せたこともあったそうです。
長崎が舞台になった芥川の作品は『奉教人の死』以外にも浦上村を舞台にした『じゅりあの・吉助』と『おぎん』があります。地名は明記されていませんが、初の切支丹物作品である『煙草と悪魔』も物語に出て来る「煙草畑」が煙草栽培発祥の地(桜馬場町)であると想定して良いのではないか、と新名則明氏が言及しています。したがって「長崎が舞台」の芥川作品は、4作品ということになりますが、今回ご紹介した作品以外にも範囲を広げて長崎と関わりが深い「切支丹物」を全て読んでみてはいかがでしょうか。曺紗玉『芥川龍之介とキリスト教』に記載されている芥川の切支丹物19作品を、年代別に列記してみましょう。
『煙草と悪魔』(大正5年11月)<長崎が舞台の可能性あり>これら芥川の切支丹物はすべて短編ですので、容易に読むことができますし、芥川本人が自信作に挙げる『きりしとほろ上人伝』や、作家の朝霧カフカさんが「珠玉のサプライズ作品」と絶賛する『おぎん』、芥川の絶筆になった『続西方の人』など、非常に興味深い作品ばかりです。