「ギョホウ」と耳で聞いても、ピンと来ない方も多いのではないでしょうか。でも「漁法」と漢字で書けば、意味が理解できますね。漁師さんが魚を捕る方法のことです。
漁法は、大きく分けると三つあります。網を使う「網漁業」。釣り針を使う「釣漁業」。そして「網」と「針」以外の方法で捕る「雑漁業」(例えば「たこ壷漁業」「突棒漁業」など)。『長崎県の漁具・漁法』という本を開いてみると、実に233種類(網漁業103種、釣漁業105種、雑漁業25種)もの漁法が紹介されていました。なぜ、こんなに沢山の漁法があるのでしょうか。それは、漁法によって捕れる魚が違うからです。200を越える漁法を持つ長崎県は、それだけバリエーション豊富な魚が捕れるということを意味しています。長崎は、300種を越える魚種が水揚げされているといわれ、これはなんと全国ランキング第1位。今回は「漁法で色々 長崎の魚」と題して、各漁法から見た長崎の魚事情を探ってみたいと思います。
「戦艦武蔵」が三菱長崎造船所で建造されたのは昭和15年(1940)のことです。武蔵は「大和」と並ぶ世界最大級の約7万2千トンの巨艦でしたから、進水時には対岸に海水が押寄せて、低地にあった民家が床上まで水に浸かったというビックリするような話も残っています。そんな武蔵を建造した立神ドッグで、昭和20年(1945)の10月以降、55~75トン級の小型漁船が多いときで14隻並べて大量建造されました。一体なにがあったのでしょうか。
昭和20年(1945)8月14日、敗戦した日本は「ポツダム宣言」を受諾、ダグラス・マッカーサー率いるGHQの占領下の元、復興を目指すことになりました。復興における当面の課題は「食糧問題」です。短期間で大量の食糧を安定供給できるものとして、政府とGHQが目を付けたのが「漁業」。漁業を行うには船が必要ですが、これまであった漁船は戦争に徴用されて、使用できる漁船は僅かしか残っていない状況でした。そこで同年10月、全国27の主要な造船所に1週7日、1日24時間就業、つまり「休み無しで漁船を建造せよ!」という指示が出されました。それで長崎の三菱造船所でも漁船を14隻同時に建造していたというわけです。この時期、わずかの期間で173隻も造り上げるのですが、そのほとんどが「底曳網漁船(そこびきあみぎょせん)」でした。食糧問題の解決を担ったこの底曳網漁船とはどんな船で、どのようにして魚を捕ったのでしょうか。
底曳網漁船とは、文字通り「海の〝底〟を〝網〟で〝曳いて〟魚を捕る」漁船で、この漁法を「底曳網漁業」と言います。東シナ海・黄海を漁場とした長崎の底曳網漁業には主に2タイプありました。
一つは明治40年(1907)、トーマス・グラバーの息子で当時ホーム・リンガー商会に在籍していた倉場富三郎が、イギリスから導入した「トロール漁業」です。トロール網と呼ばれる三角形の袋状の網を、蒸気機関で動く1隻の漁船で引っ張り魚を捕っていく方法。魚市などでよく見かける「トロ箱」は、本来トロール漁船が収穫した魚を入れる箱のことでしたが、現在では魚箱の総称として使われています(マグロを入れる箱だから「トロ箱」ではなかったのですね)。
さて、もう1タイプは「以西底曳網漁業」です。こちらもトロール漁業と同じく、袋状の綱を引っ張って魚を捕るのですが、トロール漁業との大きな違いは2隻の漁船で引っ張るということです。網の両端を各船に固定して、2隻の船が平行して進み広範囲で魚を捕ります。尚、以西底曳網漁業の最初の2文字「以西」は〝漁法〟とは関係なく〝場所〟を示しています。「東経130度(現在は128度30分(日本測地系))以西で操業を行う」底曳網漁業のことです。
以西底曳網漁業は大正時代に生まれた長崎を代表する遠洋漁業。全盛期には800隻以上の船が操業していました。先述しました戦後の食糧安定供給の要になるに至る、以西底曳網漁業歴史をご紹介します。
画期的な漁法の誕生です。大正2年(1913)、島根県片江村の渋谷兼八らによって始められた蒸気船を使った「機船底曳網漁業」は、その簡易性と効率性でそれまで主流だった「延縄漁業(詳しくは次回のコラムで紹介します)」を漁獲量において圧倒していきます。特に8年(1919)、五島沖で片江村の人々による「2艘曳」の試行に成功して、游泳力に優れた「レンコダイ」「マダイ」などの高級魚も漁獲できるようになり、漁獲額を上げて収益を高めました。
9年(1920)渋谷ら島根漁業者の成功に触発されて、同じ海域で操業していた徳島県の漁業者たちも機船底曳網に転向します。また、長崎の魚問屋の山田屋商店や、後に「マルハ」と社名変更する林兼商店も参画、「延縄」から「底曳網」への転向者が続出しました。機船底曳網漁業の主な根拠地がある長崎、福岡、山口、佐賀の4県で操業している機船底曳網漁船の数は10年(1921)の時点で200隻、翌年には500隻近くまで増えました。この急速な発展で問題が勃発します。あまりにじゃんじゃん魚を捕るものですから、陸から近い沿岸で漁をしている漁業者の漁獲量が減り、利害関係において対立したのです。ここで国が動きました。同年、禁止区域などを定めた「機船底曳網漁業取締規則」が制定され、さらに13年(1924)水産局通牒によって、東経130度以西で操業をする新規許可停止が伝えられたのです。この通牒以降「以西底曳網漁業」と呼ばれるようになりました。
大正13年(1924)の水産局通牒は、新規参入を阻止するためのものでしたが、許可の権限が各県の知事にあったことから、抑制が効かず昭和3年(1928)、800隻を越えました。漁獲量は伸び続け、昭和10~13年には15、16万トンの大台に乗ります。ところが、14年から下がり始めて20年(1945)には8分の1の2万トンにまで激減しました。昭和20年といえば、そうです。終戦の年です。戦時中は、漁船と乗務員が徴用され、船を動かすための燃料は配給制になり、漁場も五島と鳥島にかけての範囲だけに限定されてしまっては、まともに漁はできません。終戦時、残った稼働可能な船はたったの24隻だったといいます。
戦後、国とGHQの方針で食糧不足を解決するため、底曳網漁船を大量建造したことは冒頭で述べました。その増え方は爆発的で、24年(1949)には戦前を上回る986隻を記録。マッカーサー・ラインが引かれ、漁が許された範囲は戦前の僅か17パーセント(後に33パーセントまで拡大)と制限されたにも関わらず、わずか3年で食糧供給は安定を見ます。
しかしながら、戦前の数を越える986隻はさすがに増やしすぎたようです。マッカーサー・ラインを越えた禁止区域で、違反操業をする船が続出することにつながりました。GHQは資源保護のためにも取締の強化と「減船」を政府に要求。国はGHQの言い分を受け入れ、25年(1950)6月政府は違反船の操業許可取消しやトン数制限などを実施、678隻にまで整理されました。
以降1960年代後半までの約20年間は、険しい道ではありながらも山を登りつめた「以西底曳網漁業の黄金時代」だったといえます。漁獲量も30万トン台に到達。ところが、1970年代になると道は徐々に下り坂になっていきました。40年(1965)の主な根拠地(下関・戸畑・福岡・長崎)の許可隻数は684隻。10年後の50年(1975)には175隻減って509隻になり、10年後の60年(1985)は424隻。さらに10年後の平成7年(1995)98隻。そして現在、29年(2017)は僅か8隻(長崎8隻)になってしまいました。魚資源の減少を始めとして、韓国、中国漁船との漁場競合や燃料価格の高騰、労働者不足など原因は複数あり、しかも時代によって状況が変化していきました。詳しく知りたい方は、長崎大学名誉教授 片岡千賀之氏の著作『西海漁業史と長崎県』(長崎文献社)をぜひ御覧ください。90年の歴史を持つ長崎県を代表する以西底曳網漁業。現在、どんな魚が捕れているのでしょう。代表的な赤物(漁業の専門用語で色が赤い魚を指す)をご紹介します。この2種類は、長崎の食文化にも密接に関係しています。
黄色みを帯びた鯛なので「キダイ」です。連子鯛とも呼ばれ、機船底曳網漁業にその座を奪われるまでは「レンコダイ延縄漁業」が主流でした。長崎のおめでたい場での定番で、お正月おせち料理の南蛮漬けや、結婚式・ひな祭りなどのお祝いの膳には、必ずといってよいほど乗っていた魚です。
漢字で書くと「金頭」で〝頭部が金属のように硬い〟というのが名前の由来です。長崎ではその名を「お金にあやかる」と解釈して、縁起モノとして節分に煮付けにして食す伝統があります。2月2日、3日の長崎魚市場では、底曳モノの売り場が「カナガシラ1色」に染まったという話も残っています。
以西底曳網では、それ以外にもマダイ、キンメダイ、マトウダイ、シズ、カマス、アジ、フグ、ヒラメ、水カレイ、ヒラアジ、アンコウ、ナマズ、アカムツ、ハモ、ミズイカ、コウイカ、赤イカ、ウチワエビなども漁獲されています。