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コラム まちぶらプロジェクト実行中!~まちなか活性化10年計画
中島川・寺町・丸山エリア
中島川の橋群
中島川・寺町・丸山エリア
寺町・興福寺

 『長崎町づくし』(長崎文献社)によれば、この洲が埋め立てられて、町建てが始まったのは開港以降で、1640年代までには、ほぼ現在のような『中島川・寺町・丸山エリア』『浜町・銅座エリア』ができあがったと記されています。

銅座エリア
浜町エリア

 『館内・新地エリア』へつづく道はというと、1640年の時点ではまだ海のなかです。1702年、唐船の貿易品を格納するため人口の島がつくられました。これが新地蔵、現在の中華街です。その後、1860年代になってようやく軸が通っている道の部分が埋め立てられて、新地蔵は陸続きになりました。埋立ての理由は「外国人居留地の造成」。浦賀に黒船が来て、諸外国と通商条約が結ばれ、長崎は5カ国と貿易をする貿易港になりました。貿易業務をする外国人たちが仕事・居住する場所が必要になり、新地蔵から大浦地区一帯の海岸線までの広い範囲が、10数年かけて埋め立てられることになったのです。

館内・新地エリア
中国文化に触れ、食を楽しむまち
東山手・南山手エリア
異国情緒あふれる国際交流のまち

 そしてついに1870年代「まちなか軸」が完成します。開港から、実に300年かけて道がつながったわけです。
 「まちぶらプロジェクト」の一環として、歴史を楽しみながら「まちなか軸」を歩くためのガイドブックを、長崎史談会と長崎市が共同で製作しました。普段何気なく通り過ぎていた場所が、意外な人物ゆかりあるところと知るだけで、まちなかが別世界に見えてくるはず。ぜひ、ガイドブックを手に歩いてみてください。
ダウンロードページ:まちなかガイドブック1・2




【第2回予告】 「新大工エリアができるまで」
 「まちなか軸」のスタートはどこかと問われれば、「『新大工エリア』です!」と答えます。決して『東山手・南山手エリア』ではありません。軸がつくられた「歴史」から考えれば、そういう結論になります。その場合、どうしても長崎甚左衛門についてふれなければなりません。『新大工エリア』の右奥、旧長崎村(鳴滝、桜馬場、夫婦川付近)の話から始まって、長崎開港によって岬の突端に6町ができ、「内町」が形成され、その後「外町」が拡大されていく中で新大工町がつくられるまでを分り易く解説します。

【第3回予告】 「中島川・寺町・丸山エリアができるまで」
 新大工町側から山なりに「光源寺(浄土真宗)」「禅林寺(臨済宗)」「深崇寺(浄土真宗)」「三宝寺(浄土宗)」「浄安寺(浄土宗)」「興福寺(黄檗宗)」「延命寺(真言宗)」「長照寺(日蓮宗)」「晧台寺(曹洞宗)」「大音寺(浄土宗)」「大光寺(浄土真宗)」「崇福寺(黄檗宗)」と寺が続きます。これらの寺々は1607年から1644年までの僅かな間につくられました。なぜ、これだけ連続して各宗派の寺が建てられねばならなかったのか、歴史を紐解きます。