シスター江角ヤス
長崎の地へ導かれて……
生い立ち、そして勉学に励む日々
明治32年(1899)、ヤスは神国・出雲、島根県簸川(ひかわ)郡久木村に誕生した。生家は出雲大社にも近い簸川平野(現在の斐川)が広がるのどかな農村。江角家は代々熱心な真宗の門徒であり、父文之助は小学校校長、久木村村長を歴任し、村の名士として活躍する、子ども達のしつけにも厳しい人であったという。
★ 江角ヤスの横顔★
物事に対し、きちんとした性格だったのは、
この厳しかった父の影響と言われている。
ヤスは9人兄弟姉妹の6番目、3女であった。夫に仕えながら、子ども9人を育て上げたのが母ユウ。控えめながらもとても賢明で礼儀正しいと評判の母と、ヤスは幼い頃、度々お寺や墓参りに行った。「人を陥れるために穴を掘ったら、自分がその穴に落ちる」……ヤスは晩年、母から教わった教訓話を披露した。
★ 江角ヤスの横顔★
ヤスは、若くして他界した母を尊敬し、
また、この遺訓を生涯支えにした。
小学校から将来の夢は「学校の先生になる」ということ。そして、その目標に向け懸命に勉強した。当時、女子に対する社会の考え方は、第一に良妻賢母になることで、小学校を卒業すると家事手伝いをして年頃になると嫁に行くのが常だったが、ヤスは父の理解もあり、高等学校、島根女子師範へと進んだ。
★ 江角ヤスの横顔★
算数の問題が解けないと、理解するまで
何時間も復習をする負けず嫌いだった。
学生時代のヤス
全寮制の島根女子師範学校に進学したヤスは、そこで学ぶ「博物教育」に強い影響を受ける。学校が保有する他校に類を見ない「植物園」において学ぶことにより、植物に対する知識はもちろん、植物を愛する心、美しいものに対して起こる知的で情緒的な感情、勤労奉仕の精神が養われることを体得。また、小学校本科正教員の免許も取得した。
★江角ヤスの横顔★
向学心が絶えないヤスは、いつしか
目標を師範学校や高等女学校の教師に。
東京女子高等師範学校入学すると、郷里の人々、親族の期待を一身に浴びる。ここでヤスは、理学士・牧田らくの影響を受け「数学の研究」という新たな目標を持ち、東北帝国大学理学部数学科を目指すことになる。父はまだ時代的に難しい女子の大学進学には反対したが、次兄の経済的支援を受け実現した。恩師 らくが第一期女子学生であり、ヤスは10年振りの第二期女子学生であった。
★ 江角ヤスの横顔★
入学動機は「とにかく勉強したかった。
女子に門戸を開いていた大学は東北し
かなかった」というものだった。
亡くなる2、3年前まで、
専門の数学で自然界の法則にみる
神の摂理を生徒達に説いた
キリスト教との出会い、改宗
ヤスの教育理念の構築は、最終学歴である東北帝国大学在学中の経験により集大成を迎えたといえるだろう。女子学生も男子学生も差別されることなく、立派な教授陣に恵まれ熱心に勉学に励む日々。そんな折、ヤスは『キリストに倣いて』という一冊の本に出会う。それは幼少期、キリスト教は邪教であり、キリシタンはすべて国賊だと教育されたヤスの人生観を完全に覆し、キリスト教への興味を募らせるものだった。あるとき、カトリック角五郎町教会を訪れたヤスは、小聖堂にはめ込まれたステンドグラスの一枚に関心を抱く。そこには日本人の殉教する姿が描かれていた。日本二十六聖人殉教の姿である。その後、毎日教会に通うようになったヤスは、大正13年(1924)、25歳の時に洗礼を受け改宗した。
卒業後、数学教師へ
大学で数学の研究を続けるヤスの心の中では、しだいに生涯を修道者として生きたいという考えが芽生え、改宗後すぐに北海道の修道会への入会を模索したが、指導司祭に「教育に貢献するように」との助言を受け、大学生活に戻っている。大正15年(1926)、理学士となったヤスは、京都府立第一高等女学校の数学教師に任命され教鞭をとる。しかし、その間も自分の進むべき道を探し続け、休日を利用し、教育修道会の門を叩くなどした。しかし、当時の教育機関を経営する修道会の教師は、すべて外国人宣教修道女であったため、ヤスは入会を断念している。なぜならば、このときすでに、ヤスの心の中に、「日本人の子女は日本人の手で教育したい」という強い思いがあったからだった。
純心女学院創立まで
京都のヤスの元に思いがけない手紙が届いたのは3年後のことだった。長崎教区長・早坂久之助司教から、「長崎教区に邦人修道会を創り、将来は教育事業を行うのでぜひ協力してほしい」との要請を受けたのだった。日本二十六聖人の殉教地長崎で、邦人女子修道会の修道女として、日本の子女のために学校を設立する……後にヤスは、このとき、神の招きと感じたと語っている。昭和5年(1930)、修練のため渡仏。当時31歳であったヤスは、修道女(シスター)となり、4年後の昭和9年(1934)に帰国した。そして6月1日、長崎に到着。
待ち構えていた早坂司教は、9日午後、大浦天主堂の聖母像の前で、「純心聖母会」を創立した。聖母マリアを理想と仰ぎ、聖母のような、きよく、かしこく、やさしい女性を教育したい――それが創立当初からの目的であった。
※2012.4月ナガジン!特集「長崎から世界の宝へ〜長崎の教会群とキリスト教関連遺産の世界遺産登録を目指して〜」参照
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