現在、長崎純心女子学園の大学、大学院のキャンパスがある三ツ山町。長崎駅前から車で30分程度、緑豊かな農村地帯を越え、山道を上り詰めたこの場所は、戦時中、疎開地を求め、シスターらが自らの手で開墾した土地である。
ヤスはもちろん、シスター達
自らの力で開墾していった
あの夏の日――1945年8月9日
「殉難学徒の最期の姿に頂いた勇気」
昭和20年(1945)8月。純女学徒隊は、夏休みを返上して各地の工場において午前と午後、交代で働く日々が続いていた。8月9日の朝、ヤスは、シスター達に6日広島に落とされた新型爆弾の被害のこと、長崎も危険である噂があることを告げ、余程の事がない限り三ツ山町の開墾地へ行くよう指示している。
11時2分、閃光と爆裂音と共に、凄まじい黒煙が長崎、浦上地区の空を覆った。地上500mで爆発した原子爆弾の爆風と熱風により、建物は崩壊し、次々に火災が発生した。爆心地から約1.3mの場所にあった家野町の純心高等女学校の校舎も崩壊。午後には火災によって焼失した。残っていた生徒は死亡、各部署で働いていたシスター達も、みんな負傷した。この日、爆心地から3km離れていた三ツ山開墾地へ向かったのは、10名余りのシスターと1年生6名。市街地の異変に気付いた彼女達は、早々に学校へと向かった。彼女達が学校に辿り着いたときには、校舎にはすでに火の手が挙がっていたという。重傷を負ったヤスは救出され防空壕で横たわっていたが、三ツ山から戻ったシスター達に、工場で被爆した学徒動員の生徒達を探しに行くよう命令した。
捜索するシスター達が目にしたもの。それは、水を求め浦上川流域に折り重なるように死んでいる大勢の人々だった。そのひとり一人を抱き起こし、純心の生徒を探し出す。すでに息絶えている際は、校庭へ運んで火葬し、負傷した生徒達を救護所へと送る不眠不休の命を賭けた救護活動が続いたという。原爆症が発症し、身動きの取れないヤスのもとには、10日の夜あたりから純女学徒の殉死報告と、被爆して元気に帰宅した学徒達が、その後原爆症を発症し、次々と亡くなっていったという報告が毎日のように伝えられた。
戦争による惨事とはいえ、愛する教え子達を死なせてしまった責任を感じたヤスは、学校を閉じ、余生を教え子達の冥福を祈り過ごそう、と考える。しかし、そのことを知った亡くなった生徒達の父兄が相次ぎヤスのもとを訪れ、娘達の最期の様子を語り、純心教育に感謝し、学校閉鎖をやめるよう訴えるのだった。家族が語ったこと――それは、彼女達が一様に聖母マリアの賛美歌を歌い、苦しみの声を祈りに変えながら美しい最期の時を迎えたということだった。それはまさしく、ヤスが生徒達に説き続けた“純心スピリット”の証であった――。
ヤスはこのことに勇気を甦らせ、「あの子たちのような教え子をもう一度育てて、二度と戦争のない平和な世界をつくりだすのに役立つ教育を行おう」と純心女子学園の再建を決心する。
※2010.8月ナガジン!特集「歴史を語る碑のある風景」参照
慈悲の聖母像の立つ校墓の建立
「消えぬ心の悲しみ…祈りの場所」
浦上川に憩う生徒と被爆後に建てられた校舎。
昭和30年代
ヤスは、原爆投下から2ヶ月後の10月9日、翌日には教育を再開するため、大村市植松にあった第二一海軍航空廠(しょう)の女子工員宿舎に移転するという日に殉難学徒の慰霊のために公式な慰霊祭を行っている。そして翌年からは毎年、原爆記念日である8月9日に殉難学徒のご両親を迎え、慰霊祭を行った。
また、歩けるようになったヤスは、昭和21年(1946)から夏休みを利用して、殉死した生徒達の家庭訪問と墓参(ぼさん)を行うようになる。上五島、下五島、西彼杵半島、平戸、北松、佐世保方面と長崎市近郊……この慰霊巡礼は昭和23年(1948)に終了。翌年、純心女子学園を全面的に長崎の家野町、元校地に復帰させると、学園玄関前の緑の植え込みの中に校墓を建立した。慈悲の聖母像が安置されたこの校墓には、殉難者の分骨が納められ、永井隆博士がヤスに贈った「純女学徒隊」を偲んだ歌が刻まれている。
校墓前での原爆慰霊祭は今日も継承されている。
片岡千鶴子学長「シスター江角は『純女学徒隊』の遺族へ招待状を毎年、必ず自筆で書き送りました。私たちはそのようなシスター江角の姿に消えぬ心の悲しみを見る思いでおりました」。
このヤスの自筆による遺族への招待状は、亡くなる前年まで続けられたという。
一般の人も入場できる場所にある校墓
アメリカの有志から寄贈された
慈悲の聖母像
校墓正面に刻まれた
「燔祭(はんさい)のうた」
※2008.8ナガジン!特集「この夏読みたい!永井隆の世界」参照
恵の丘長崎原爆養護ホーム
「殉難学徒に代わって」
昭和35年(1960)、原爆から15年の時を経て、学校の再建が一段落したことを機に、ヤスは、創立当初から修道会(長崎純心聖母会)が教会から与えられていた使命のもうひとつ、社会福祉事業(社会事業)に力を入れることを宣言した。そして昭和45年(1970)、長崎において初めて、※1原爆孤老のための養護ホーム「恵の丘長崎原爆ホーム」を開設。ヤスは、「この丘がなかったら、純心は復興しなかった」として、三ツ山のその地に「恵の丘」と名付けた。
恵の丘長崎原爆ホーム
片岡千鶴子学長「シスター江角は、亡くなった『純女学徒隊』の供養のために生き残らせて頂いたので、彼女たちが生きていたならば行ったであろうことを自分が代わってしなければならない、という思いが何時もありました。『恵の丘』にある原爆ホームの開設は、原爆で亡くなった生徒たちに代わり、原爆孤老の方々のお世話をしたいという気持ちから始まったものです」。
またヤスは、この施設に平和発信の拠点として、反戦・反核を社会に示す役割を持たせ、21世紀、核の時代に社会的に影響を与えることができるホームにしようと構想していた。それから10年後の昭和55年(1980)、被爆者の高齢化に伴う入所希望者の増加により「恵の丘長崎原爆ホーム別館」を新築せざるを得ない状況となっていた。このとき、すでに80歳となっていたヤスは、その年の5月に胃がん末期であることを告知されていた。そして、最後の被爆者のための福祉事業として、この別館開設に全力を注ぐ。7月、落成式を迎え、ヤスは関係者への感謝と共に、社会福祉及び、被爆者福祉事業のあるべき理想像、また次世代への継続を希望するあいさつを述べた。
そして、同年11月30日、新設された原爆ホーム別館の一室にて帰天。81歳であった。
※1原爆孤老/自身の被爆はもとより、原爆により配偶者や家族を失った身寄りのない老人や、祖父または祖母と孫だけを残し、一家が全滅し扶養者を欠いて孤立した老人世帯。あるいは被爆後、家庭の事情により扶養者や家族と離れて生活することを余儀なくされた老人。
シスター江角ヤス
長崎を回復させた人
へりくだった、つつましい顔に写っている、と
ヤスが気に入っていたという写真
戦後、被爆50年の節目となった平成7年(1995)、純心女子学園では、ノーベル文学賞作家の大江健三郎氏を迎え、浦上天主堂において「平和を考える」記念講演会を催した。そこで大江氏は「信仰する人たちもそうでない私らも」という講演テーマを掲げ、はじめに「長崎の原爆の特別な性格ということを自分で学びたいと思ってきました」と前置きし、次のように語られたという。
「この50年間、原爆は主に核兵器の威力と悲惨について評論されてきたが、自分はもう一つ大切なことがあるのではないかと考えるようになった。それは、原爆で傷ついたが生き残った人たちが、どのようにして生活を再建してきたかということである。今回、被爆都市長崎に来て原爆で死んでしまった人たちの願いと祈りが、傷ついて生き残った人たちの回復の出発点にあって両者が強い線で結ばれている多くの事実を知った」と。そして、その具体例として、純心女子学園の原爆で亡くなった生徒達と、原爆後の学園の再建の例を挙げ、そこに自分が探していたものの解答を見付けたと話されたそうだ。
片岡千鶴子学長「大江健三郎氏が『長崎の原爆の特別な性格ということを自分で学びたいと思ってきました』と述べられたように、私たちも『長崎の原爆の特別な性格』を探すとすれば、それは原爆で死んでいった人々や、原子野の真っ直中に傷ついて生き残り、長崎を回復して来た人々の生きざまの中にあると思っています」。
純心女子学園初代園長 江角ヤス――彼女が原爆によって背負った悲しみと苦しみは如何ばかりのものだったろう。
「なぜ、この子ども達がここにいるとき、ここに原爆がおとされなければならなかったのでしょう」。
しかし、ヤスは過去を悔い悲しみ、詫びの涙の中にときを過ごしただけではなかった。自分は生き延び得た……その自分に与えられた「生」の意味を積極的に見出そうとしたのだ。そして、その「生」を“受難の教え子達の弔いのために捧げること”が自分にできる最大のことと確信し、教育者としての責任感と、聖職者としての奉仕の精神をもって活動していった。そして、このヤスの働きが、純心のみならず、戦後長崎を取り戻していく大きな一助となったのである。
片岡千鶴子学長「シスター江角は、何でも自分達の手でするという考え方をお持ちでした。そして、何よりご自分が真っ先に実行する……明治の女性ならではの気質を持ち合わせておられでした」。
創立時、わずか28名の生徒で出発した純心は、現在、幼稚園や大学を有し、東京と鹿児島に姉妹校を持ち、さらに海外の学校とも姉妹校提携を結ぶ大きな学園へと発展した。しかしどんなに学校の規模が大きくなろうと、生徒達の胸にあるのは、初代学園長 江角ヤスが遺した“純心スピリット”なのである。
最後に--。
近年、ヤスの地元島根県では、故郷が生んだ「江角ヤス」の功績を讃えるイベントや、子ども達による学習発表がさかんに行われるようになったそうだ。同様に、これまで彼女の名、その功績をよく知らなかったという多くの人に「シスター江角ヤス」を知ってほしいものだ。
学校法人 純心女子学園 純心中学校・純心女子高等学校
http://www.n-junshin.ed.jp/
学校法人 純心女子学園 長崎純心大学
http://www.n-junshin.ac.jp/univ/
参考文献
『シリーズ 福祉に生きる 55江角ヤス』山田幸子著(大空社)、『長崎原爆と純心女子学園』片岡千鶴子著(『キリスト教史学』第五十二抜刷(キリスト教史学会)、『焼身 長崎原爆・純女学徒隊の殉難』高木俊朗著(角川書店)、『江角ヤス講話集 生命の道しるべ』(長崎純心聖母会)、『シスター江角ヤスの物語』(長崎純心聖母会)、『江角ヤス初代学園長からのプレゼント』江角ヤス著(純心女子学園)
参考ホームページ
長崎純心聖母会
http://n-junshinseibokai.or.jp/
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