聖フィリッポ教会全景
「聖フィリッポ教会」と聞いてピンと来ないかたも、長崎駅を出てNHK長崎放送局横の坂を登ったところ、二つの塔があるユニークな建築物といえばお分かりになるのではないでしょうか。そうです、あのアートな建物こそ聖フィリッポ教会です。そんな見慣れた教会ですが、ここで普段どのような活動が行われているかまでは、ご存知ではないでしょう。そこで今回は、教会の日常を聞きに行ってみることにしました。
イエズス会のマーク
聖フィリッポ教会の隣には観光名所でもお馴染みの「二十六聖人殉教碑」と、さらにその後方には「日本二十六聖人記念館」も建っています。これら三つの施設は「イエズス会」により創建されました。イエズス会といえば、あのフランシスコ・ザビエルも在籍した、長崎とは非常に関係の深いカトリックの修道会。今回は、聖フィリッポ教会の担当司祭ヴィタリ・ドメニコ神父にお話を伺いました。
徳川時代にキリシタンに対して行われた大迫害があって、イエズス会の宣教師や修道士は日本から追放されてしまい、17世紀中盤に日本とイエズス会の関係がプッツリと切れてしまいます。それから200年ほど経った、安政6年(1859)の開港の後、大浦外国人居留地に外国人のための教会建設が許可されました。この時、教会の建設のために派遣されて来たのは「パリミッション」というフランスのカトリック宣教会。同会のフューレ神父やプチジャン神父の尽力で、元治2年(1865)に大浦天主堂が完成するわけです。素朴な疑問なのですが、なぜ長崎にゆかりのあるイエズス会が派遣されなかったのでしょうか。
(神父)
細かいところは私にも分かりませんが、一つはイエズス会が1814年に復興した後、まだ日本に行くだけの準備が整っていなかったからではないでしょうか。
「復興」というのはどういうことでしょうか。
(神父)
イエズス会は1773年に一度解散させられているのです。
ええっ! 一体、誰に解散させられたのですか。
(神父)
教皇です。
一体、どのような理由で解散に至ったのでしょうか。
(神父)
ポルトガル・スペイン・フランス3国がバチカンに圧力をかけたのですね。教皇クレメンス13世は断ったのですが、さらに圧力は強くなっていって、次のクレメンス14世が解散を命じました。
3国はなぜイエズス会に圧力をかけたのでしょうか。
(神父)
はっきりしているのは、パラグアイでの布教に関する問題ですね。ロバート・デ・ニーロが主演した「ミッション」という映画はご存知ですか。
はい、観たことがあります。確か南米の奥地に住んでいるインディアンに布教する話でした。
(神父)
そうです。イエズス会の神父とインディアンの協力で立派な村や教会が作られるのですが、そこはスペイン領の中にあるのです。
思い出しました。その領地から作物や奴隷を搾取したいスペイン人と、インディアンの自立を目指すイエズス会との間に対立が起こります。バチカンから派遣された枢機卿が現地で裁判をして、スペイン側勝訴の判決になるという展開ですね。
(神父)
スペインにとっては、国境をこえて活動するイエズス会が邪魔だったのです。
映画では、ポルトガルもこの領地を狙っていました。スペイン・ポルトガル両国にとってイエズス会は目の上のタンコブだったのですね。では、フランスはなぜイエズス会を嫌がったんでしょうか。
(神父)
ちょうどフランス革命の時期で「反教会」の機運が高まっていましたから。
教会が「権力の象徴」みたいになっていたんですか。
(神父)
そうですね。ですからフランスやスペイン、ポルトガルに限らずヨーロッパ各国で、イエズス会の廃止運動が起きていたのです。
数ある修道会の中で、なぜイエズス会だけが槍玉に上がったのでしょうか。
(神父)
パラグアイの件でもそうですが、活動が目立っていましたからね。
それで、1773年に解散させられてしまうわけですね。
(神父)
でもロシアにだけイエズス会は残りました。
えっ、ロシアですか? それは不思議な気がします。ロシアは同じキリスト教といっても「正教会」でカトリックではありません。
(神父)
そうです、国家としてはギリシャ正教会ですね。当時ロシアはポーランドの一部を占領していたのですが、ここは昔からカトリックの地域だったのです。イエズス会はここで学校もやっていましたから、こういう施設を保つためにもロシアの女王エカテリーナ2世がイエズス会を保護したのですね。彼女はロシアでのイエズス会解散法令の発布を断りました。
なるほど、勅令自体は女王の元に届いていたけれど、発表をしなかったと。
(神父)
ロシアではこのように保護されましたが、例えば南米で活動していたイエズス会の宣教師たちは船でポルトガルに連行されて、聖ジュリアの刑務所に収監されました。イエズス会総長だったロレンツォ・リッチストも、ローマの「天使の城」にある牢屋に入れられましたし。
犯罪者扱いだったんですね。
(神父)
そうです。カトリックでは信者が死ぬとき「聖体」というミサの時に配る特別なパンをいただくのですが、ロレンツォが亡くなる時は、それも許されませんでした。
1814年にイエズス会は復興するわけですが、これはどのようなきっかけがあったのでしょうか。
(神父)
たくさんの人が解散に反対していたのです。南米での布教や、ヨーロッパでも学校を建設して、たくさん良い仕事をしていましたから。そんなイエズス会が廃止されて被害を感じている人たちが大勢いたのですね。イタリアとスペインで教皇に少しずつ復帰を許されていって、1814年にようやく復興したわけです。
長崎にはたくさんのカトリック教会がありますが、それぞれ運営している修道会が違いますね。修道会によって教えに違いはあるのでしょうか。
(神父)
修道会は信じること、あるいは典礼のことについては根本的に全部共通です。異なるのは活動のテーマですね。例えば、19世紀に作られたサレジオ会は「移民への布教」に力を入れています。イタリアから移民がでると、彼らは一緒についていって信仰上のケアをするのです。シカラベニ会もそうですね。あらゆる移民のところに行って、信仰を支えています。最初の修道会というのは6世紀につくられたベネディクト会で、「祈る」「働く」ことをテーマにしました。「ヨーロッパを開墾した」とされている歴史のある修道会です。
長崎のキリシタン史にはよくドミニコ会とフランシスコ会が登場しますね。
(神父)
ドミニコ会は13世紀に創立された修道会で、主にテーマは「説教」ですね。同じ13世紀にできたフランシスコ会は「貧しさの中で神様に奉仕する」でしょうか。どの会でも共通していることですが、修道生活の根本は「清貧」「貞潔」「従順」の三つです。清貧は自分の持ち物を持たないこと。持っているものは共同体のも、という考え方です。貞潔は結婚しないということですね。従順は目上に従うということです。この三つに加えて、イエズス会には四つ目の誓願があります。それは「教皇様が指示された仕事を、指示された場所にただちに赴き行う」ということです。教皇様の命令を特に大事にしているのです。
それでは仮に、ヴィタリ神父が旅行に行った先の教会がフランシスコ会の教会だったとします。そこでミサをすることはできるのでしょうか。
(神父)
はい、できます。ミサの段取りは全世界共通ですから。でもカトリックの中でも、典礼様式の違う国はありますよ。ローマ教会でありながら、違う様式を持っています。
ミサとは何でしょうか?
(神父)
カトリックの礼拝ですね。礼拝というのは、キリストが「最後の晩餐」の時にされたことを行うことです。
最後の晩餐というとキリストが十字架にかけられる前日の夕食会のことですね。
(神父)
その時キリストは「これを私の記念として行いなさい」と言ったのです。夕食に出てきたパンはキリストの「体」、ぶどう酒はキリストの「血」を意味していいます。「砕く」ということはキリストの死を意味する、自分を捧げたということですね。
砕くとは食べることですか?
(神父)
はい、そうです。食べられることで自分を与える、「死んで与える」ということを示したということですね。
ミサというのは、最後の晩餐を「再現」してキリストに思いをはせるための儀式なのですね。
(神父)
聖書の言葉を聞いて、キリストをいただいて、それを多くの人と分かち合ってくださいと。もともとミサという言葉は、ラテン語の「ミット」からきていて「送り出す」という意味合いも持っています。ミサの最後に「行きましょう、主の平和の内に」という言葉が出てきます。そういう言葉で司祭が信者を送り出すのですね。派遣といってもいい。
派遣というのは「福音宣教」の意味もあるということでしょうか。
(神父)
そうですね。
ミサは、具体的にはどのようなことを行うのでしょうか。
(神父)
最初に聖書の朗読です。平日は2箇所、日曜日は3箇所。朗読した箇所についての説教をした後は「奉献文(ほうけんぶん)」。そして「聖体の秘跡」です。パンとぶどう酒を持って、最後の晩餐の言葉を繰り返します。終わりに聖体のパンを、洗礼を受けている信者に配ります。
朗読する聖書の箇所は決まっているのでしょうか
(神父)
1年間、毎日どこを読めばいいか決まっています。種類がA、B、Cと3種類あって、年によって変えていくのですね。そうすると3年で聖書全体が読めるようになっています。
ミサは毎日行われるのですか。
(神父)
そう、毎日ですね。
よく映画などで日曜日の礼拝というイメージがあるのですが。
(神父)
平日のミサは「できるだけ行くように」ですが、日曜日のミサは「必ず行くように」と義務づけられています。
奉献文というのはどのようなものなのでしょうか。
(神父)
ミサ聖祭で一番大事なところで、教皇様、司教様、亡くなった全ての人ため、全教会のためなど色々な祈りがありますよ。5つ種類があって、短いものや長いものなど、季節や事情によって変えます。
神父様の役割というのはミサを仕切るということでしょうか。
(神父)
そうです。
「洗礼」なども神父の大事な役割ですね。神父が不在だった17世紀以降の日本の信者たちはどうしていたのでしょうか。
(神父)
どうしても神父がいない時には、信者も授けることができます。洗礼は七つ秘跡の一つですね。ミサの話の中で出てきた「聖体」もそうです。他にも「堅信」「終油」「叙階」「結婚」「告解」があるのですが、この中で告解以外は、信者が行うことができます。
告解というのは「懺悔(ざんげ)」ですね。これだけは神父でないと出来ないのですか。
(神父)
罪は単に神様に対する罪だけじゃなくて、共同体への罪でもあるという考えもあるのですね。共同体の代表者として、神父が告白を聞いて罪の許しを与えるということです。
英語ミサを行うヴィダリ神父。
多くの外国人が参加していました。
聖フィリッポ教会には今、どれくらいの信者がいるのでしょうか。
(神父)
ここはいわゆる教会付きの信者さんがいるわけではありません。ちょっと特殊な立ち位置なのです。他の長崎にある教会というのは長崎大司教区の管轄の中に、小教区の教会があって、それぞれの神父さんは大司教に任命されて各教会に配属されるわけですが、フィリッポ教会はイエズス会直轄の教会になるのです。本部は東京にあります。
聖フィリッポ教会では、普段どのような活動を行なっているのでしょうか。
(神父)
長崎在住の外国人のための「英語ミサ」を行ったりしています。特にフィリピン人が多いですね。「日本二十六聖人記念館」の運営も大事な仕事ですね。それとここは「公式巡礼所」になっていますから、巡礼者のためのミサを行ないます。今年の10月は、20もの韓国のグループが巡礼に訪れました。神父も一緒に来てミサを行うなど、とても熱心でしたね。
お遍路さんと似ていますが、長崎への巡礼というのはどのような目的で行うものなのでしょうか。
(神父)
長崎の巡礼は殉教者を想い、大事にするということです。一番の規範はイエス・キリストですね。イエス様のように生きたいという思いはあるのだけれど、まずは同じ人間として、聖人を規範にするということですね。二十六聖人が殉教した場所に来て、彼らがどのような気持ちで十字架に架けられたのか追体験するということです。
ということは、聖人を尊敬して規範にすることでイエス様に近づきたいということですね。
(神父)
その通りです。よくこのことでカトリックが誤解されますが、決して聖人を拝んでいるのではありません。聖人を大事にすることで神様につながりたいという思いがあって巡礼しているのですね。
教会の正面玄関横にある聖フィリッポ像
イエズス会が、再び日本に来ることになったきっかけについて教えてください。
(神父)
教皇様から「日本にカトリックの大学をつくるように」という要請があったのですね。それでヘルマン・ホフマンたちが来日して1912年に東京に「上智大学」を設立しました。
明治時代までは、日本のカトリックの布教活動はパリミッションが行っていたと聞いています。大正時代に入り、上智大学の設立があって、再びイエズス会も日本で活動するようになったのですね。17世紀中頃にイエズス会との関係が途切れてから、再来日まで約250年という年月が経ったわけです。それでは、再来日してからのイエズス会ですが、どのような活動を行なっていったのでしょうか。
(神父)
イエズス会は、1923年に広島教区の布教活動をパリミッションから引き継ぎます。広島教区というのは広島、岡山、鳥取、島根、山口の5県ですね。これらの地域を中心に、関東や関西まで範囲を広げて学校と教会を建てていきました。旧制六甲中学校(兵庫県)、ザビエル記念聖堂(山口)、エリザベト音楽短期大学(広島)、広島学院(広島)、修練院(広島)、カトリック六甲教会(兵庫)といった具合ですね。
そういった広島教区を中心にした活動の中で、エリアが違う長崎に記念館や教会がつくられたのはどのような理由があったのでしょうか。
(神父)
聖フィリッポ教会と記念館設立の計画を最初に発案したのはイエズス会ではないのです。長崎の人で、法務大臣にもなったカトリックの田中耕太郎さんと、プロテスタントだった北村徳太郎さん、この二人がリーダーになって昭和22年に「聖地整備委員会」が長崎市役所内につくられました。これは昭和37年の「二十六聖人列聖100周年」を見据えた動きだったんです。
26人が聖人になってちょうど100年という節目に、殉教地に何かをつくりたいという動きが長崎のクリスチャンの中から起こったのですね。
(神父)
委員会は、フランシスコ会とイエズス会にこの話をしたそうです。
二十六聖人の内、6人がフランシスコ会士、3人がイエズス会士だったという理由からですね。
(神父)
最終的には、イエズス会が引き受けることになりました。それで山口にいたウラルデ神父が責任者になって、その手伝いをパチェゴ神父がしました。
パチェゴ神父というのは結城神父のことですね。「イエズス会が引き受ける」というのは、イエズス会が建設費用を出すということでしょうか。
(神父)
そうです。それで世界中の教会に建設のための資金援助を呼びかけたのですが、特にメキシコからたくさんの援助金が集まりました。それで二十六聖人の1人であり、メキシコでもよく知られている聖人、フィリッポ・デ・ヘススの名前から「聖フィリッポ教会」と名付けられたのです。
教会名にはそういう由来があったのですね。教会と記念館の設計をしたのは今井兼次さんで、二十六聖人像を彫刻したのは船越保武さんですが、この人選はどなたが。
(神父)
二人ともクリスチャンですね。彼らを選んだのはおそらく東京の本部にいたアルペ管区長でしょう。彼はのちにイエズス会の総長になりました。
教会の入り口に飾られている馬小屋
(神父)
長崎には実に多くの教会があります。例えばクリスマスのミサは、一般の信者でない方も参加できるところが多いと思いますよ。
教会のクリスマスはどのようなところを見れば良いのでしょうか。
(神父)
そうですね、教会でもツリーは飾るけども、もっと力を入れるのは「馬小屋」を再現するということですね。
イエス様が生まれたという馬小屋ですね。
(神父)
私が山口県の教会にいた時は広場につくっていましたね。羊飼いや動物たちもつくって、イエス様が生まれたシーンを再現するのです。
クリスマスという日の意味をもっともわかりやすく伝える方法ですね。
(神父)
はい、私のために生まれてくださったという感覚を持ってもらうための手段ですね。
よく考えたら、長崎ほどクリスマスにふさわしい場所はありませんね。これだけ身近に教会があるのですから、実際に行って「本物のクリスマス」を体験するのは長崎らしいクリスマスの過ごし方かもしれません。「長崎クリスマス」として浸透して欲しいです。