近代化が進むにつれ、石炭、造船、製鉄・製鋼など、各産業を支えるためのインフラ整備が各地で行われていきました。港湾整備、炭鉱鉄道、鉄道用の橋梁、駅舎など、今も各地には当時の遺構が残っています。
長崎では、外国人居留地造成後、海上交通を円滑にするべく明治19年(1885)、中島川の変流工事、出島突堤の築造などの長崎港湾改修整備に着手。木鉄混交、トラスト構造の近代的な長久橋、出島橋が架設されました。現在復元中の「出島」脇に架かる出島橋は供用中の道路橋としては日本で最古の橋。また、明治22年(1889)には近代上水道の敷設を着工。資材のほとんどを海外から輸入し、ダム式としては日本初の本河内高部ダムが明治24年(1891)に完成しました。
また、明治27年(1894)、日清戦争がはじまると軍事輸送が急増。同時に石炭輸送も増大し、明治21年(1889)設立の九州鉄道会社が柄崎(現武雄温泉)~早岐間に継ぎ、長与~長崎間、早岐~大村間、大村~長与間と鉄道建設を開始しました。県内で最も古い駅舎建築は明治30年(1897)建築の「早岐駅」で、鉄道敷設期のもので唯一残る駅でしたが、昨年10月、橋上式新駅舎が完成。明治時代の面影を残す洋風建築洋式の旧駅舎はその役割を終えました。また、旧九州鉄道長崎線の一部で、現在JR九州大村線の沿線に、明治31年(1898)に完成した煉瓦トンネル群が現存。さらに旧国鉄長崎本線の路面の下には、明治31年(1898)完成の重厚な総石造のアーチ橋「伊木力橋梁」や煉瓦造りアーチ橋の「山川内橋橋」など、石造・煉瓦造アーチ構造の橋。当時の遺産を見ることができます。幕末に入ってきた西洋文化のひとつに赤レンガ建築があります。赤レンガは、明治時代、近代化とともに日本中に広がり、数々の炭鉱施設などにも多用されました。大村線の煉瓦トンネル群は、まさにその賜物です。
早岐駅
早岐駅
明治維新前後の一時期に、長崎で生産されたオリジナルの赤レンガ、「こんにゃくレンガ」があります。安政4年(1857)に開始した「長崎製鐵所」の建設指導を担当したオランダ海軍機関士官ハルデスが、建設に使用する屋根瓦や、建築用煉瓦、耐火煉瓦を日本の瓦職人達に指導し造らせたため、別名「ハルデス煉瓦」とも呼ばれるこのレンガ、サイズは220×104×39mm。その名の通り、薄くて長い扁平なのが最大の特徴です。第1回で紹介した「旧グラバー住宅」、「国際海底電信」の線小ヶ倉海底揚庫などにも使用されています。現存する最古の赤レンガ建造物である「小菅修船場跡」の曵揚げ小屋も、この「こんにゃくレンガ」でできています。花のような刻印が残るハルデス時代に焼かれた日本最古の赤レンガは往時の繁栄を偲ばせます。
こんにゃくレンガ
三池炭鉱の誕生により、日本の炭鉱技術は世界に肩を並べ、上海港には九州からの石炭が次々と荷揚げされるようになります。そして明治時代、九州には鉄道と港のインフラ整備が行われました。福岡県大牟田市から熊本県荒尾市へと続く三池炭鉱専用鉄道と三池港、熊本県宇城市の三角西(旧)港がそれです。専用鉄道は、三池炭鉱で産出する石炭や炭鉱で使用する資材の運搬のため、明治11年(1878)に大浦坑と大牟田川河口に鉄道馬車を敷いたのがはじまりで、三池炭鉱が三井に払い下げられた後、鉄道の設計に着手。明治24年(1891)、大牟田川河口の横須浜~平原(七浦坑)が開通。明治30年(1897)には旧九州鉄道、現在の鹿児島本線と直結しました。その後さらに南へと延び、明治38年(1905)に三池港へ。生産現場である坑口から搬出する港まで連続した石炭運搬が可能となり、さらに倉庫や貯炭場も整備されました。
(福岡県大牟田市提供)三池港
三角西(旧)港
三池炭鉱専用鉄道敷
鉄道敷きプラットホーム
三池港の築港は、官営時代からの懸案事項でした。有明海は干潮時には沖合数kmにわたり干潟が現れるため、大型船の航行が困難でした。そのため、三池炭の搬出は大牟田川河口から艀で曳き舟され、対岸の島原半島の口之津や、長崎まで運ばれ大型船に積み替えられていました。こうした問題を解決するため、三池炭を大型船へ直接積み込むことができる港を大牟田に築港することが計画され、明治35年(1902)に着工。明治41年(1908)、三池港が完成し、長崎税関三池税関支署も開庁しました。現在も当時と同じ場所に建つこの建物は、明治期の洋風建築の特色を色濃く残す三池港繁栄の歴史の象徴です。
三池炭鉱の三井への払い下げとともに三池炭鉱社の事務長に就任した団琢磨は、三池港築港に際し次のように述べました。「石炭山の永久などという事はありはせぬ。無くなると今この人たちが市となっているのがまた野になってしまう。これはどうも何か(住民の)救済の法を考えて置かぬと実に始末につかぬことになるというところから、自分は一層この築港について集中した。築港をやれば、築港のためにそこにまた産業を起こすことができる。石炭が無くなっても他処の石炭を持ってきて事業をしてもよろしい。(港があれば)その土地が一の都会になるから、都市として“メンテーン”(維持)するについて築港をしておけば、何年もつかしれぬけれども、いくらか百年の基礎になる」先見の明を持っていた団琢磨の言う通り、三池港は今も現役稼動しています。
官営時代から三池炭鉱の積出港であった島原半島口之津港の補助港の三角西港は、長崎にとてもゆかりがあります。施工した人物が、長崎のグラバー園内の建物や大浦天主堂建設を手掛けたといわれる天草出身の棟梁、小山秀率いる天草の石工集団なのです。その関係から、「旧グラバー住宅」や「大浦天主堂」にも天草石が使われています。明治20年(1887)に華々しく開港した三角西港は、貿易、行政、司法の各施設を備えた近代的都市として発展し、貿易港としての地位を獲得。三池炭鉱から運ばれた石炭は、三角税関の許可、口之津港の税関の許可を得て上海に輸出されました。しかし、三池港の開港を機に石炭輸送の役割は終えることとなりました。石炭の積出港としての繁栄は約10年ほどでした。